第8話:湖底に沈む逆さの都――俺はクリスタルクリア!?
空気の匂いが変わった。
牢の中の空気は溜まり水のカビ臭さだったが、いまは違う。
爽やかな湖畔の匂いだ。
――ちょっと、ほっとするな。
廊下の歩く部分は平らにならされ、壁と天井は自然のままの洞窟だ。
壁はぬめぬめと濡れ光っていて、なにやらうねるものが這っている。
さっきから足元がふわふわする。
妙に落ち着かず、全身がぼんやりしたような違和感がある。
――ダイエットに成功したか?
なんて冗談を言ってる間に(口に出してないが)、前方に光が見えてきた。
前を歩くクヴァ=ソンの背中から、誇らしさを感じる。
――こいつはすげえ。
あまりの景観に、俺は圧倒されて立ち尽くした。
後ろの男たちは、俺を急かさない。
「さあ、どうだ」と言わんばかりのドヤりの気配が伝わってくる。
――光が踊っていた。
空いっぱいに広がる青白い揺らめきが、まるで水の裏側から差し込む光のように、目の前の円形の広場を撫でている。
いや、実際――空が水だった。
目を凝らすと、水面に映る泡や波紋がゆっくりと動いている。
――重力、どっちだ?
広場はごく小さく、ざっくりと削られた壁に囲まれている。
そこから急な階段が、水の空へと逆さに伸びていた。
立ち止まっているクヴァが、こちらを向いて、少しだけ顎を上げるようにして言う。
「我らのミマルグチャだ」
その誇らしげな響き。
顔は相変わらず無表情だけど、金魚みたいに大きな瞳の奥がキラキラしている。
――この子、いまちょっとテンション上がってるな。
この世界に来てはじめて、俺は笑顔になった。
俺は、誰かが何かを誇るのを見るのが好きだ。
「とても美しいです。こんな都は、私の世界では見たこともないし、想像もできません」
「うむ」
クヴァの口角がほんの少し上がったのを俺は見逃さなかった。
――いまの5割増しのドヤり、いいね!
「お前、かしこまった話し方をしている。それは必要ない」と、クヴァが言った。「敬意も敵意も、我らにはマナスで伝わる」
「……そうか。分かったよ」
素直にそう言うと、クヴァは満足げにうなずいた。
俺の背中を巨人の男が押した。
前より、ちょっとだけ優しくなったみたいだ。
階段の先にあったのは、街並みというより、水を抜いた海底だった。
不規則な岩が、ボコボコと水の空の下に続いている。
背の高い岩もあり、先端が水の空に突き刺さっているものもある。
水の空の高さは、東京の街中にあるマンションくらいだろうか。
けれど不思議と圧迫感はなかった。透明な水が広がっているからだ。
牢への入り口がある広場の穴は高い柵で囲まれていた。
階段の正面にある入り口を、巨人の男が鍵を使って開ける。
そうして俺は、ミマルグチャへと足を踏み入れた。
地面は石でも金属でもない、腐った藻のようなものが敷き詰められている。
踏み固められているところが、かろうじて道だ。
歩くたびに感触が伝わって、ふわふわする。
巨人たちの足音も、いまはしない。
岩にはそれぞれ扉があり、巨人が出入りしている。
全体的に、女は男より背が高く、男はみんな筋肉の塊だ。
寝椅子がそこここにあって、男女とも思い思いに寝転がっている。
――リゾートみたいだな。
やわらかに揺らぐ光と、ひんやりと澄んだ空気。
広々とした空間に、透明な水で満たされた空。
――ホテルを建てたら、めちゃくちゃ儲かりそうだ。
「ここはみなが休息を取る場所だ」と、クヴァが俺の思考を読んだかのように言った。
クヴァがすっと手を上げ、指を一本立てる。
「ミマルグチャの中心はウアリカナの中にある」
――打って変わって、よく語る。かわいいこと。
巨人たちは、あの水の空をウアリカナと呼んでいるらしい。
つまり、あの中に街の本体があるということだ。
――で、これからどこに行くんだ?
それを聞こうとしたとき、目の前の岩の影から巨人が現れた。
全部で8人、明らかに武装している。
クヴァの横顔から表情が消える。
俺の中にクヴァの一部が入ってきた。
――2つに割れて討論する巨人たち。
片方の先頭にクヴァ、そして片方には――
巨人たちの中から1人が進み出る。
頭ひとつ低いが、堂々とした雰囲気は他を圧してあまりある。
男は海藻を思わせる装飾が施された槍を持っている。
男の俺への一瞥――俺にはその目は、死んだ魚の目にしか見えなかった。
「我の心波を拒絶するな」と、男は静かに言った。
クヴァは答えない。
「……ヘリドをウアリカナに入れるな」
地を這う低音が、俺の胸を震わせる。
「誰が決めた。下がれ、ガル=ソゥグ。お前にショロトルの声が聞こえるか」
ガル=ソゥグが槍の石突きで地面を突いた。
柔らかい地面に刺さった槍の根元から水が噴き上がる。
鋭く、攻撃的な水の奔流――
俺の後ろにいた巨人の男2人が前に進み出て、背負っていた槍を構える。
クヴァは仁王立ちのまま、その目だけを見開いた。
俺の知らない、俺の世界にはない何かの力がぶつかり合っている。
まわりの空気にひそんでいる水の粒子さえ震えはじめたのを、俺は感じた。
――また揉め事かよ。異世界は揉めてばっかだ。
でも、じつは俺は落ち着いている。
この感じ、知ってるんだよ。
会社の会議室でも、家族のリビングでも、急に空気が張りつめるあの瞬間。
でもその緊張って、突然起きたように見えて、実はずっと前から始まってる。
積もり積もったモヤモヤが、そこで吹き出しただけだ。
そういうとき、場に水を差して流れを変えるのは、ちょっとズレた奴だ。
事情をよく知らない奴が、呑気に「どういうことなんだっけ?」と出ていく。
――俺、そういう役、わりと得意なんだよね。
どんな揉め事にも第3案はある。
少なくとも俺の経験では、そうだった。
「景山、お前は透明になれ。クリスタルクリアだ」
杉崎課長、見てますか?
俺、異世界でもやりますよ。
何かあっても大丈夫。
俺、死なないみたいだし――ちょっと痛いだけで。