第6話:青黒い巨人の美姫――心、ときめく!?
息ができない――苦しい!
口を開けても、入ってくるのは水ばかりだ。
耳鳴りがして、バツンッと音が響き、激痛が走る。
しかしその痛みも遠のいていく。心臓が肋骨を突き破りそうに打つ。
苦しい――助け……、ブラックアウト。
これを、俺は何度も繰り返した。
溺れては目覚め、また溺れた。
そして、気がつくと硬い床の上に寝ていた。
――なんだここは?
意識が何度も飛んでいたので、どのタイミングで目覚めたのか分からない。
既視感がある。さっきも、同じことを思ったばかりだ。
――俺って、思ったより打たれ強いのかも。
とにかく、呼吸ができることに感謝だ。
空気が肺に入ってくる心地良さよ。たとえちょっと変な臭いがしてもだ。
目も見えるぞ。真っ暗だけどな。
廊下から入ってくる微かな光で、ここが石でできた牢屋だと分かる。
だって、鉄格子があるからな。
そして、誰が――いや、何が俺をここに連れてきたかも分かる。
天井がショッピングモールくらいあるし、牢屋にしては広い。
鉄格子の扉は、誰かを肩車しても通れるだろう。
冷え切った体をぎこちなく動かして、身を起こす。
両手が紐のようなもので縛られている。
力を入れると、あっけなくちぎれた。
壁まで這いずって、寄りかかる。
「ふう……」
ひと息ついたとはとても言えないが――
冷静になれ。俺にいま何が起きてる?
この状況をどう捉え、どう対処すれば……
「……ぐっ……ううう」
胸の奥から大きな塊が込み上げてくる。
そいつが肺から空気を押し出す。
「くそう……ちくしょう……ッハッハアッ……ぁぁあああ!」
押し出されたのは空気だけではなかった。
涙があとからあとから溢れてくる。
――全然、打たれ強くなんかないじゃないか。
腹が波打ち、肩が震える。
酸っぱいものが込み上げてきて、俺は吐いた。
――だめだ、冷静になれ。泣いたっていいが、パニックになっちゃいけない。
けど――
感情の波が寄せては返し、繰り返す。
体の中からあらゆる液体が出ていくにつれて、現実感もなくなってきた。
俺は感情に翻弄されるだけの生き物になっていた――
パシンッ!
いきなり、頭の中で白いものが閃いた。
視界を占拠して、俺の世界を純白に変える。
――今度はなんだ?あんまりだろう。異世界ってより、異常世界だよ……
<――急げ>
…………出やがったな。
俺を異常世界に連れてきた犯人め!
冷静に、冷淡に文句を言ってやりたい。
その上で、俺をもとの世界にもどすように要求するんだ。
ズル…ペタ…ペタリ、ズル…ぺタ…ペタリ……
そんな音がして、白い世界は弾けて消えた。
俺は、自分が石の床にぶちまけたものの上に倒れていた。
「いい加減にしろ……!」
歯をくいしばって起き上がる。
――許せない。俺はどんなことをしても現実に帰るぞ!
廊下に現れたのは、予想通り青黒い巨人だった。
「……ええ?」
異世界に対する俺の強硬姿勢は、しかし、完全に出鼻をくじかれた。
それは確かに湖で見た不気味な化け物だった。
ただひとつ、素晴らしいプロポーションの妖艶な美女であることを除けば――
「お前……」
低い、水底の轟きのような声。
彼女の後ろには黄色い光源を持った巨人の男が2人従っている。
全員が、細かく裂かれた、まるで金魚のヒレのような服を着ていた。
夜空のもとではボロボロに見えたが、実はそういう装飾だったらしい。
美巨人の服には特に精緻な装飾が施されていて、高そうだ。
肌の露出が多く、黄色い光に、青い肌が黄金色に輝く。
彼女にはヘソがある。
大きな乳房が布を高く押し上げて、美しくくびれたお腹が見えている。
つまり、人間と同じように腹で育ってから生まれてくるということだ。
卵からというわけではなく。
そして、ほぼ顔の側面についているその目は――
白目がほとんどなく、目の縁までが瞳孔だ。
南国の澄んだ海のようなコバルトブルー。
彼女は、アウラニスとはまた違った神秘性に満ちている。
人外の顔カタチをしているのに、確かに美しい。
不思議な感覚だった。
その瞳が、床に落ちているちぎれた紐をちらりと見た。
と――
突然、圧倒的なイメージが俺の脳に押し寄せてきた。
俺は彼女を見ている。しかし、認識はしていない。
――青黒い巨人たち。
俺。
アウレニスやルスカたち。
俺。
水に沈んだ逆さの都市。
俺。
大きな都市の俯瞰。
俺。
美巨人。
俺。
彩奈――
……なんで?彩奈の顔が、あの夜と同じ角度で俺を見ている。
いや、そんなはずない。彩奈は関係ないだろう――
「ちょ、ちょっと待て!」 俺はたまらず叫んでいた。
一気に流れ込んでくる重なったイメージ。
それらは個々別々ではなく、有機的に繋がり、動き続ける。
頭がパンクしそうだった。
それに――
なぜ彩奈が出てくる?
イメージが止んだ。
美巨人が静かに俺を見下ろしている。
「分かるか?」と、彼女が言った。
――いまのが、か?
「いや……すみません。私の言葉、分かりますか?」と俺。
「分かる」と、彼女は短く答えた。
俺はほっとして、言葉を続けた。
「今のは……いや、その前に、ちゃんと話がしたい。お互いのことを」
彼女の耳の辺りにあるエラがひらりと揺れた。
――あれ、エラだよな。耳かもしれないけど。
「我、クヴァ=ソン。ヌ=アラトゥの中心、ショロトルの巫女」
「あ?ああ……そうですか。
私は景山汝、日本の会社員です。それで、ここはどこですか?」
「牢」
「……あの、私、湖に沈んだはずなんですけど」
クヴァ=ソンはしばらく間を置いて、言った。
「ミマルグチャ――我が都」
「あなたたちが住んでいる所ですか?」
「問いの答えは」
――話が噛み合ってないな。
問いとは、あのイメージのことだろうか。
あれは、俺に何か聞いてたのか?
――分からな……いや、そうか。
「私はどっちの味方でもありません。巻き込まれただけです」
「……我を見ろ」
俺は言われるままにクヴァ=ソンを見た。
囚われの身だ。従っておく方がいいだろ?
その瞬間、俺とクヴァ=ソンの間に繋がりができた。
親密な関係ではないけど、さっきの一方的な感じとは違う。
クヴァ=ソンが、まばたきをした。
正確には、目の手前側から透明な膜が出てきて、戻った。
長い足が、一歩後ろへ下がる。
「巫女……?」と、彼女に従う巨人の1人が言った。
「お前――」
クヴァ=ソンは呟き、少し間があったあと、巨人の男が前に進み出た。
鍵が回され、牢の扉が開く。
先に護衛の2人が中へ入り、俺の両脇にぬっと立った。
そのあとから、クヴァ=ソンが静かに歩み入ってくる。
彼らが部屋に入ってきたことで、改めて理解する。
ここは巨人のための牢だ。
この広さも、彼らにはいかにも牢屋のサイズ感だ。
俺は、クヴァ=ソンの方が男たちより頭ひとつ背が高いことに気づいた。
ただ体格に関しては、男の方がクヴァ=ソンの倍くらい逞しい。
クヴァ=ソンがその滑らかな腰をすっと落とし、俺の前にしゃがんだ。
コバルトブルーの瞳と目が合う。
文字通り吸い込まれそうだ。
「動くな」
そう言って、俺の顔へ手を伸ばす。
長い指は5本。指の股に水かきがある。
顔が吐瀉物で汚れていることが気になるが、クヴァ=ソンに躊躇する素振りはない。
――青い胸の谷間ってのも素敵なものだ。
すまない。緊張の緩和を求めて自然に視線が動いてしまったようだ。
男がどんなにこっそり見ても、女性は男の視線に気づいているという。
クヴァ=ソンも、「あ、こいつ、いまあたしの胸見たな」とか思っただろうか。
人差し指と中指が俺の頬に触れた。
――冷たい。そして、柔らかい。
冷え性の彩奈に触れられているよりも、まだ冷たい。柔らかいのは同じ。
「熱い――やはりヘリドだ。なぜマナスが深い?」
彼女が、誰に問いかけるでもなく言う。
――また知らない言葉だ。
俺にはなんのことやら、さっぱり分からない。
褒められてるのか、警戒されてるのか。
「お前、心波は分かるか?」
「……分かりません」
「ショロトルは?」
――アウラニスも口にした名だ。でも、俺は知らない。
「分かった」と、クヴァ=ソンが言った。
彼女が立ち上がり、男たちが俺の後ろへ回る。
「ショロトルはお前になら応えるかもしれない。
我に協力してくれ。そうすれば、我もお前に協力しよう」
クヴァ=ソンは腰から布を出して、俺に渡した。
顔を拭けというのだろう。少し、花の香りがした。
クヴァ=ソンは満足気にうなづき、立ち上がると、優雅に振り返って歩き出した。
潮の香りがふわりと舞う。懐かしい、広々とした匂いだ。
背後から背中を押されて、俺は牢のでかい扉を出た。
そのまま廊下を歩いていく。
――次は、どこへ行くのやら。
けれど不思議と、ひどいことはされない気がした。
美しい腰のラインが自然にくねり、滑るように進んでいく。
優雅とはこのこと。まるでダンスホールに進み出る貴婦人のようだ。
ズル……ペタリ……、ズル……ペタリ……
それは、巨人の男たちの足音だと知った。
クヴァ=ソンの足音は、ペタペタとどこか可愛らしかった。
俺は彼女からもらった布をスウェットのポケットにしまった。
ハンカチよりだいぶ大きいので、はみ出してしまう。
次に会ったときに、洗って返すつもりだ。