第55話:それでも、無茶振りは終わらない
俺は、不動の闇の中にいた。
重く、静かで、あたたかい。
遠くで、スマホが鳴っている。
もう何度目だろう。しつこいったらありゃしない。
重い瞼を上げた。
机の上に、汚い布がある。
――やっぱり、あったか……
体を起こす。乾いた清潔なジャージを着ている。
予備があって良かったよ。
時計は、午後1時過ぎを指していた。
電話は杉崎課長からだ。
俺はスマホのタッチパネルに触れた。
「……やっと出た。景山、お前大丈夫か?」
聞き慣れた声に、涙が込み上げる。
「……すいません……連絡もせず」
「鼻声だな、そんなに悪いのか」
「……いえ、大丈夫です」
「病院は行ったのか?」
「……いえ」
「熱は?誰か行かせようか」
「いえ……いえ……もう大丈夫ですから。熱もないですし」
「そうか――大事にな。明日も休むか?」
「いえ……はい……すみません」
「分かった。何かあったら連絡してこいよ」
通話が切れて、ツーツーというビジートーンだけが残った。
――相変わらず、この世界はぬくぬくしている。
俺は電話帳アプリを開き、彩奈の番号をタップしかけて、止めた。
◆◆◆
その日と翌日は、部屋の中で水だけを飲んで過ごした。
不思議と腹は空かなかった。
風呂が気持ちよくて、何度も入った。
ゆらゆらと揺れる水を見ていると心が和んだ。
「よお、顔色悪いな」
二日後、出社した俺を見て開口一番、同僚の真島が言った。
「彼女にでも振られたか」
こういう定番のセリフを言える奴が、幸せになるんだと思う。
「景山さんは彼女いませんよね」と、後輩の心谷が言った。
くるりと巻いた茶髪を揺らして、いたずらっぽく笑っている。
「迷惑かけて、ごめんな。今度おごるよ」
俺が突然休んだ穴は、この二人が埋めているはずだった。
「景山、もういいのか?」
杉崎課長がモニターの脇から顔を出して言った。
俺は課長の机まで行って、丁寧に礼を言った。
いつもの日常が、あっさりと戻ってきた。
◆◆◆
1週間ほど過ぎた。
俺の日常はいつも通りで、あの異世界での時間はやはり夢だったのではないかと思えてきた。
だが、あの血と泥で汚れた服の存在が、その思い込みを許さなかった。
俺は服を洗濯して、ビニール袋に入れてクローゼットの奥にしまった。
少し残業をして会社を出た。駅までのオフィス街を歩く。
まだ違和感が消えない。
空気が肌に馴染まないというか、自分がズレている感じがする。
ここにいるようでいて、いないような感覚がある。
体の周りで、何かが動く感じがするのだ。
まるで水の中にいるような肌感覚だった。
俺は駅の登り階段の最後で、架空の段を空振りした。
まだ階段が続いていると思って、足を出してしまったのだ。
激務が続いたときに、一度やったことがあった。
ぼーっとしていたのだろう。
俺は足場を失ってバランスを崩し、階段の角にしたたかに脛をぶつけた。
「ぐっ……」
悲鳴を飲み込む。
とても立っていられなかった。
俺は壁際に寄ってからしゃがんで、冷や汗を流しながら痛みに耐えた。
骨は折れていないだろうが、肉が裂けているかもしれない。
スーツのズボンの裾を恐る恐る捲ってみた。
しかし、靴下に血がついているだけで、脛は痣にすらなっていなかった。
確かに激しくぶつけたはずなのに――まるで、瞬時に回復したようだった。
◆◆◆
さらに数日、何事もなく日々は過ぎた。
ハンカチを忘れた俺は、会社のトイレから出た後、手を振って水を払っていた。
それを心谷に見られた。
「はい、どうぞ」
心谷が、にやにやしながらハンカチを渡してきた。
「いいよ、もう水切れたし」
心谷はハンカチを自分の鼻に近づけて、深呼吸をした。
「お花のいい香りがしますよ。
またトイレ行くでしょ。わたし、予備持ってますから」
そう言って、押し付けてくる。
俺は仕方なく受け取った。
花の良い香りがした。
「ありがとう。洗濯して返すよ」
「先輩の匂いつきでオッケーです」
心谷が笑いながらトイレに消えたあとも、俺はしばらく廊下に立ち尽くした。
――クヴァに、返せなかったな。
俺は、クヴァから花の香りの大切な布を預かったとき、同じセリフで約束していた。
涙を堪えられず、俺は非常階段に逃げた。
◆◆◆
あの日以来、はじめて彩奈に会った。
「んー、やっぱり何かあっただろ?」
彩奈が俺の目を覗き込んで、言った。
俺たちは行きつけの居酒屋の、入り口近くの席で飲んでいた。
最近は外で飲む人が減ったとはいえ、金曜の夜の街は賑やかだった。
「別に何もないよ」
そう答えながらも、俺は彩奈の顔を見れない。
耳の後ろに、ピンクのエラがないか探してしまいそうだ。
「おい!」
彩奈が、ぐいっと体を乗り出してくる。
顔が真っ赤で、目が座っている。
――いつもよりだいぶ飲んでるな。
「トイレ行ってくる!」
彩奈は椅子を鳴らして立ち上がり、店の奥に歩いて行った。
隣の男性客が、彩奈を目で追っていた。
――俺は何をやってるんだ。
自然と溜め息が出た。
異世界に行って、気づいたことがあった。
それを確かめに来たはずなのに。
――こんなんじゃ、ユリカに叱られるな。
ふと視線を外に向けると、女性が二人、通りを歩いているのが見えた。
片方の子を見て、俺の心臓が跳ねた。
真っ黒な服を着た、ボブカットの可愛らしい子だった。
そっくりというわけではないが、バユに雰囲気が似ている。
――みんな、どうしているだろう。
思い出さないようにしても、つい異世界のことを考えてしまう。
夢か現実かも分からないというのに。
そのときだ。
バユに似た女の子が、大柄な男とぶつかった。
いや、明らかに男の方から当たりに行っていた。
「なにすんだよ!」と、男がどなった。
女性二人は身を寄せ合って縮こまっている。
何か言っているようだが、ここまでは聞こえない。
「あ?詫びをしろって言ってんだよ。飲み直すから付き合え!」
男は酔っていた。
黒い女の子の腕を強引に捻り上げる。
女の子は苦痛に悲鳴をあげた。
「……加速」
俺は無意識につぶやいていた。
次の瞬間には、目の前に男がいた。
そばに寄るとでかい。
「なんだ、てめえ――!?」
凄む男を無視して、俺は男の胸に手を当てた。
軽く、掌底を入れる。
男は小さく呻いて、膝から崩れ落ちた。
「早く行きな」
バユに似た女性に言って、俺は歩いて居酒屋に戻った。
居酒屋にいる全員が、俺を見ていた。
――しまった。
そそくさと席に座ったが、店はしんとしたままだ。
視線を感じて顔を上げると、隣の男性客が慌てて目を逸らせた。
酔客たちは、事態をうまく飲み込めていないようだった。
あの動きを説明できる人間はいない。――自分を除いては。
「お待たせえ!」
上機嫌で帰って来た彩奈の腕を引いて、俺は有無を言わさず店を出た。
◆◆◆
例によって彩奈をタクシーで帰し、俺はベッドに倒れ込んだ。
薄々勘付いてはいたが、異世界で得た能力をこっちでも使えるらしい。
――どうしようか。
何か稼げる使い方はないだろうか。
能力を動画にしたらバズるだろうし、チャンスかも知れない。
……いやいや。
そのまま見せても、悪い方に転ぶとしか思えない。
異常すぎて、社会から弾かれるかも知れない。
結局のところ、みんなを楽しませる創意工夫が必要ってことだ。
世の中、簡単じゃない。
ピンピロピロピン――
楽しげな電子音が、真っ暗な部屋に響いた。
「お風呂が沸きました」女性の声が言う。
「お、ありがとー。風呂風呂」
あれ以来、風呂が大好きになった。
さっさと服を脱いで湯船につかる。
一人だから掛け湯する必要もない。
肌のまわりにたゆたう水の動きが心地良かった。
しばらく温まってから、洗い場で髪を洗った。
そのとき、ふと、背中に視線を感じた。
俺は後ろを振り向いてみた。
……誰もいない。
でも、なんとなく気配がおかしい。
どんよりとして、息が詰まる感じだ。
どこかで、こんな感覚を味わったことがある。
ベッドの中に濡れた女がいた、あの夜。
風呂場から出て、部屋も確認したい。
だが俺の頭には、まだたっぷりと泡が乗っていた。
お湯の量を増やして、わしわしと頭をすすぐ。
風呂場に、ざあざあとシャワーの音が満ちた。
今度は、目の端に動くものがあった。
鏡――
背後で、ジャバラ式の扉がゆっくりと形を変えていく。
俺は、敢えて無視して髪を流し続けた。
もし、いきなり襲いかかられたら――
どう動くか、いくつか頭の中でシミュレーションをする。
湯気の中に、白い輪郭が滲むように浮き上がった。
それが、ぐいっと風呂場に入ってきた。
振り上げた手から光が走り、俺の目を射た。
瞬間――俺は振り向いて、シャワーを相手の顔にかけた。
「うわっ」
声に構わず、前に出て体当たり。
壁に押し付けて、光るものを持った手をひねり上げる。
相手は悲鳴を上げた。
俺よりも頭ひとつ小さい女だ。華奢な、女性らしい体型。
俺の鳩尾のあたりで、柔かくボリュームのある乳房が潰れている。
その奥で、心臓がとくとくと脈打っていた。
光っていたのは、手のひらにはまっている機械のようなものだと分かった。
ナティラが持っていた遺物に似ている。
「何者だ」と、俺は誰何した。
「ちがうの。ごめんなさい、離してほしい」
女はくねくねと身をよじった。
それで、ようやく顔が見えた。
綺麗と可愛いの中間くらいの、愛らしい顔立ちをしていた。
ぷっくりとした唇が特徴的だ。
人間なら二十代半ばくらいだろう。
金属のように艶やかな銀髪だ。
白磁のような、青色を帯びた白い肌をしている。
白と銀を基調にした巫女装束は、柔らかな布地の中に、精密で機械的な意匠が織り込まれていた。
「あなたが勇者ナレ……で、間違いないですね?」
「……だとしたら、なんだ?」
嫌な予感がした。
「私は、金の神殿の巫女マキナレア。
このままでは、世界中の遺跡が暴走して星が崩壊する可能性があります。
あなたなら対応できると、神ソルフィエルが判断しました」
……また、無茶振りですか?
俺は心の中で、異世界にそう問いかけた。
でも本当は、俺は……
喜んでいた。わくわくしていた。
また、あんな冒険が出来るかも知れない。
そしてまた、みんなに会えるかも知れない。
「まず、俺に服を着させて。君も服を着替えようか。
びしょ濡れだし、そのままじゃ風邪引くよ?」と、俺は言った。
了




