第53話:語れ、世界が終わる前に
目の前で、少女の体が裂けた。
血と泥にまみれた、かつて美しかった服もズタズタになった。
裸体が一瞬現れ、すぐにシルエットが崩壊する。
黒髪の、透けるような白い肌の美少女だったもの。
金冠の瞳を持つ、神秘的な巫女だったもの。
どちらでもなくなった、などという程度ではない。
それは、もはや別の物質――否、別の存在だ。
あっという間に、それは球体へと変わった。
肉のように生々しく、金属のように硬質。
その表面では、内から外へと対流するオレンジと黒が、
混じり合うことなく縞模様を描いていた。
ずくん、と身体の芯を打たれるような衝撃がやってきた。
心と体、存在そのものが脅かされる圧力に、俺は一歩、また一歩と後ずさった。
――怖い。
口角から涎が垂れ、顎を伝っていく。
目は見開かれたまま、そいつから逸らせない。
球体は、別の球体を生んだ。
膨らみながら複製し、さらに新たな球体を生み出していく。
アマヤだったものは、いくつもの球体が縦に連なるオレンジと黒の柱となった。
その大きさは三メートルほどで止まる。
俺はいつの間にか尻餅をついていた。
その存在は、大きさとは別のサイズを持っていた。
物質として、精神として、魂として――識心として。
あらゆる階層が、そこに重なって存在していた。
「いやああああ!!」
悲鳴が響き渡った。
キーマンが自らの体を抱きしめ、叫んでいた。
その奥行きのある瞳は、球体から離れない。
「助けて……もう見たくない……やめろおおおお!!」
キーマンの足元には、ナティラとルスカが倒れていた。
口から泡を吹き、ぐったりと動かない。
まわりを見渡すと、立っているのは俺だけだった。
衛士も巨人も、全員が気を失っている。
空から何かが落ちた。風の衛士の一人だった。
瓦礫に叩きつけられ、潰れた体から血と脳漿が飛び散る。
羽虫のように、空を飛んでいた者たちが次々に落ちてくる。
俺の頬にも、赤い飛沫がかかった。
――精神攻撃だ。
その凶悪さは、あのダンジョンで出会った異形の眷属など比較にならない。
心が――脳が、恐怖に縛られて、なにも考えられない。
ただ、焦りと不安だけが、心を蝕み、離れない。
――どうすれば、死ねる?
視界が歪む。だがそれは眩暈ではない。
地面が傾いている。
いや、街ごと落ちているのだ。
内臓が浮くような感覚の中、俺は吐いた。
だが、吐瀉物は足元に落ちず、空間に漂っている。
心都が、船ごと落ちていた。
視界の端、水の神殿だった宇宙船もまた、ゆっくりと回転しながら墜ちていく。
『ナレ』
――誰だ?
『わたしよ、ナレ』
――彩奈?
『そうよ』
それがショロトルだと分かっていても、俺はその声を彩奈だと思いたかった。
懐かしい幻想を抱いて死ねるなら、それでいいと思った。
――なんだい、彩奈。
『語って』
……なに?
『いまこそ、語ってほしいの』
耳をつんざく轟音が、彩奈の声をかき消す。
宇宙船の傾斜に耐えきれず、心都が滑り落ちはじめていた。
俺は、瓦礫とともに空中に投げ出された。
『ナレ、お願い』
その声とともに、記憶が溢れ出した。
――水色のランドセル。
「見て、いいでしょ!」
背負ったまま寝て、背中が痛いと泣いていた。
やがて成長し、恥ずかしさから俺は距離を取った。
高校で喧嘩して、大学で疎遠になった。
たまに帰省して会う彩奈は、美しくなっていて――
周囲の視線に気づいたとき、胸が少し痛んだ。
(現実はいつも、あたたかかった)
こんなにも俺は、あの世界が好きだった。
苦しくても、辛くても。
そこは優しくて、柔らかくて――未来があった。
(なにから逃げていたんだろう)
……彩奈?
現実にあって、異世界にないもの。
――そうか。
意識が覚醒する。
耳元で風が鳴る。空に浮く瓦礫。その向こうに、黒茶色の円盤。
空が裂けた。
黒とオレンジのアメーバが、全てを飲み込むように広がった。
全身が焼かれるような激痛。
だがそれも一瞬。俺の体は、消えた。
ショロトルの加護も、意味をなさなかった。
『語れ』
声がする。彩奈ではない。
『語り続けろ』
命令だった。
『その世界のことを――もっと』
『俺は語っていない』
『語っている。マナスには核が必要だ』
『なんのことだ?』
『語れ』
『……わからない』
『マナスへ還り、永遠に語れ』
『そうすれば、どうなる?』
『世界は再構成される』
『俺は?』
『お前は語る、永遠に』
(……もう、どうでもいいか。
体はなくなったしな。
いずれ消えるってことは、前から知ってたし)
「俺」の崩壊が進む。
それは、必ず来ると分かっていた終わりだった。
だが――
『待って』
女の声。
『あなたは元の世界に帰るの』
『アマヤ?』
『そう――ありがとう、覚悟してくれて。
でも、わたしたちのことは、わたしたちでなんとかするね』
湖の水が、肌に冷たい。
背中に寄り添う体が、温かかった。
『わたしは……死ぬことにしたの』
◆◆◆
街のような巨大な二つの黒茶色の円盤が、
大地を割りながらゆっくりと墜ちていく。
円盤の縁が土を抉り、岩を砕き、森を裂いて、河を呑む。
世界がねじれ、うねり、陸の形が変わっていく。
そして、空に浮いていたオレンジと黒の球体が、
ゆっくりと、地上へ降りていった。




