第39話:ユリカ止まれ、ヒーちゃんが来たぞ!
「さあ、行け。お前なら道を切り開けるはずだ」
キーマンの言葉にうなずく。
その通りだ、俺なら行けるはずだと、胸の奥から自信が湧き上がってくる。
ナティラはぐったりと横たわり、口から粘っこい黒いものを吐いている。
心配だ。しかし、いまはユリカを追わなければならない。
俺はナティラの額に手を当てた。ひやりとする冷たさが伝わってくる。
その冷たさを受け止め、体の内にある熱を手のひらから注ぎ込む。
これが、ナティラの力になるかどうかは分からない。
内なる声に応えて、そうしただけだ。
やれることは、もうない。
俺はユリカが去った方へと走り出した。
目の前に、盾を構えて走ってくる灰色の男がいた。
血走った目で俺を見ると、剣を振り上げて切り掛かってくる。
俺は速度をゆるめることなく、ただ右手を突き出した。
男が剣を振り下ろす前に、掌底が顔面にぶち当たる。
男は吹き飛び、後ろから来る敵を何人も巻き込んで転がった。
跳んで、そいつらを飛び越える。
殺到する信者たちが、あっという間に足の下にいた。
天井に頭をぶつけそうになって、俺は手を伸ばして天井に触れた。
その反動で勢いよく反転し、信者たちの背後へと着地する。
振り向くと、信者はキーマンの方に向かっていた。
――キーマンなら大丈夫だ。
俺はそう確信して、炎のにおいを追って通路のひとつへ走った。
後を追うのは難しくなかった。
壁や天井が焼けこげて、青い光の線が途切れたり、かげったりしていること。
それから、魔物と思われる死骸が転がっていること。
そして、焼けこげた炎のにおいがすること。
それが、炎の巫女が通ったことを物語っていた。
ここで、俺は初めて魔物というものを見た。
狼のような獣、人間大の蟹や多足の虫、角の生えたトカゲのようなもの。
どれも人間にとって脅威になりそうな怪物だった。
ただ、これまで対峙してきた異形とはまったく違う。
ダンジョンの魔物がこいつらなら、キーマンとナティラが異形を見て驚いていたのも無理はない。
俺は全力で走った。
通路は上り坂で、進むほどに角度が増していった。
急坂の範囲を超えて、もはや壁のようだ。
それでも、今の俺は走り続けることができる。
そして、一気に上の部屋へと飛び出した。
その部屋の高さは5メートルはあったが、それでも俺は頭をぶつけかけた。
ごおっ――
まだ空中にいる足元を炎がなめた。
――居た。
ユリカが魔物と戦っている。
そいつは、巨大な熊だった。ただし、上半身が全部口だ。
普通なら首がある場所が、ばっくりと割れて、赤黒い口腔が見える。
唇はなく、鋭い牙がずらりと並んでいた。
目は、口の中にあった。
「ユリカ!」
俺の叫びに、炎の巫女はぴくりと肩を動かした。
そして、こちらに向けて手を振った。
炎の鞭が向かってくる。
俺は頭をかばって、両手で受けた。
「ぐうっ」
腕全体が焼ける激しい激痛。
だが――
――いまさら痛みなんぞで止まるかよ!
「ユリカ、俺だ――ナレだ!」
ユリカは明らかに暴走している。
彼女の中に入ったとき、ユリカの心は止まっていた。
そこへ、「あれ」が入ってきた。
いま、彼女の心がどうなっているのか分からない。
もう一度、彼女の中に入って確かめなくてはならない。
さもなくば、どうなるのか――
世界の存続に関わるような事態になりそうな気がする。
そう、心の中で――ああ、お前か!
――ショロトルが言っている。
俺はユリカの背中を目指して走った。
腕はすでに回復している。
口熊(と呼ぶことにする)が、巨木のような腕をユリカに向かって振り下ろす。
俺はその腕を思い切り殴りつけた。
腕が吹き飛び、口熊が叫び声を上げる。
太くかすれた獣の吠え声。
ユリカの髪が赤黒い炎となって口熊を飲み込んだ。
巨大な赤い穴に見える口の中から、どろりとした黒い粘液が溢れ出す。
それは、ナティラが吐き出していたものにそっくりだった。
口熊が仰向けに、どうと倒れた。
全身から闇が吹き出し、うずを巻いて巨体を包み込む。
ユリカはもう口熊にも俺にも興味を失って、キョロキョロと辺りを探っている。
この部屋は行き止まりで、壁には扉も通路は見えない。
キィィィ、ヒィィィン……
甲高い軋み音が聞こえた。
――上だ!
さっきは気づかなかったが、天井に穴が開いていた。
そこから、黒いなにかが猛スピードで飛び降りて来た。
「ギイイイィィィ!」
鼓膜を貫き、脳に直接刺さるような咆哮。
「ヒーちゃん!」
俺が叫んだのは、ユリカがつけた、あだ名。
本当の名は、霊獣アーマ=ヒ。
焼けた鉄を捻り上げたような体にオレンジの体毛の加速の獣が、ユリカの前に立ち塞がった。
それまで能面のように表情のなかったユリカの顔に、ある表情がよぎる。
――嫌悪感。
俺にはそう見えた。
じり、と一人と一匹が間を詰める。
両者の緊迫感は、これから始まる苛烈な戦闘を予感させた。
――止めようとしてるんだな、ヒーちゃん。
霊獣には、すべて分かっているのだ。
ユリカと深く繋がっているから、彼女のピンチに一直線にやってきた。
ユリカの頭上の、炎の形の光の輝きが急激に増した。
両手の間に爆発的な炎が生まれ、ユリカはそれを迷うことなくヒーちゃんに放った。
紅蓮の炎はしかし、黒茶色の床を焼いたのみ。
一陣の風を残して加速したヒーちゃんは、一瞬後にはユリカの頭上にいた。
長い脚でユリカを組み伏せると、たくさんの脚を檻のようにして閉じ込めた。
ユリカの頭上の炎の光が、ヒーちゃんの胴体を真っ赤に焼いている。
俺はすぐに駆け寄り、ユリカに触れた。
心を開き、彼女の中に入る。
だが、今度はうまくいかない。悪寒が背筋を駆け抜けた。
ユリカの心は、気持ちの悪い、硬い殻のようなものに覆われていた。
「ギイイイイ!」
ヒーちゃんが咆哮する――これは悲鳴だ。
――ちくしょう!
俺がもう一度試そうとしたとき、ユリカの髪が赤黒く燃え上がった。
炎がヒーちゃんを包み込む。
ヒーちゃんはまた咆哮したが、声に力がない。
その黒鉄の顔の口元から、どろりとした粘液がこぼれ落ちた。
「うああああ!」
俺はいきなり、物凄い力で吹き飛ばされた。
ヒーちゃんとユリカは、いまやひとつの大きな闇になっていた。
闇の中から、ちろちろと炎の舌が見える。
次の瞬間――
闇の塊は加速し、俺の目の前から消え去った。
あとには、逆巻く熱い風だけが残された。
「どこへ行くんだよ!」
思わず叫んだ俺の背を、強烈な打撃が襲った。
吹き飛んで壁にぶち当たった俺が見たのは、闇に覆われた片腕の口熊だった。
――異形化してる。
ユリカが異形を生みだした。
となると、ヒーちゃんも異形になってしまったのだろうか。
どうすればいいかは分からない。
でも、とにかく追わなくては!
「邪魔だ!」
俺は口熊に突っ込んでいった。
ショロトルが俺に与えた回復の力。
その力を体に満たすイメージ。
俺を害する全てのものを、触れた瞬間に「回復」させる。
口熊の巨大な爪が頭から降ってくるのを無視して、体ごと当たった。
俺の体は避けた。そして、瞬時に回復した。激痛だけを残して。
闇は、その瞬間に霧散し、残された獣の体が、どさっと床に倒れた。
「はあ、はあ、はあ……」
ちょっとやり過ぎた。
感情にまかせて力を使ってしまった。
――でも、休んでいる暇はない。
俺はユリカとヒーちゃんが消えた穴へと、跳び上がった。




