第37話:それは、魂の不在に現れる
――わたしにできることは、なんだ?
ナティラは、ポーチの中の気圧銃に指を這わせた。
重みと冷たさが、指先に確かな感触を返してくる。
ユリカの拘束を解くような遺物は、ポーチの中になかった。
ならば、ヴォルトを倒せば術が解けるかもしれない。
ナティラに戦闘力はない。
けれど――目眩ましなら、できる。
閃光弾。古い遺物技術を模して神殿で作られた弾頭。
炸裂すれば、一瞬とはいえ、影手の技を断つ可能性がある。
彼女は銃身に弾を込めた。
手が震えている。この場の異様な状態に反応しているのだ。
キーマンとヴォルトの戦いは、識心の嵐を巻き起こしていた。
空間が歪むたび、髪が逆立つような感覚が皮膚を走る。
ヴォルトが縦横に放った魔影が、キーマンに追いすがって動きを止める。
しかし、キーマンは眼によって魔影を砕いて脱出する。
キーマンは両手に持った十手に似た武器でヴォルトを攻撃する。
しかし、ヴォルトは意外に巧みな体術と短刀で切り抜ける。
――押されてる。
キーマンの反撃は鋭いが、間合いの外から影が忍び込んでいる。
魔影に囚われる時間が、ほんの少しずつ――だが確実に、長くなっていた。
キーマンの視線がこちらへ向いたとき、ナティラは目を合わせて合図した。
伝わったかどうかは分からない。
――でも、やるしかない。
ナティラは銃口を持ち上げた。
そのとき――
背後で爆発音が響き、熱波が背中に吹きつけた。
かがり火から吹き上がった炎が、ユリカの頭上に集まっている。
後頭部のあたりに、揺れる炎の形をした光が強烈に輝いた。
ナレは片手をユリカの腹に当て、片手は背中を抱き、しっかりと目を閉じていた。
その額には汗がにじみ、眉が痛みを我慢しているかのように寄っている。
そして、ユリカの全身から、皮膚から染み出すようにして闇が溢れ出した。
闇は、ひとつひとつが生き物のように蠢いていた。
(異形が……追い出してるの?)
闇は核を作り、それぞれが異形として形を成そうとしているように見えた。
しかし、炎がそれを許さなかった。
燃えさかり渦を巻く赤い舌が異形を飲み込み、焼き尽くす。
――ガキンッ!
激しい金属音に、ナティラは振り返った。
キーマンが打ち込まれている。
彼女の手足は、魔の影に絡み取られ、曲がり様のない方向に捻じ曲げられていた。
「キーマン、行くよ!」
対峙する二人の頭上を狙って、引き金を引く。
シュウッ――ボンッ!
弾頭が炸裂し、強烈な閃光が広場を焼いた。
目が潰れるほどの白光。空気の層が熱を帯びて逆巻く。
ヴォルトの影が、裂けた。
一瞬、影が剥がれ、黒い鎧のようにまとっていた識心の殻が砕ける。
キーマンが咆哮し、飛び込む。
ヴォルトが突き出した短刀を片方の武器で絡めとり、短刀を握る指を切り付けた。
ゴキッと骨の砕ける音が響いた。
「ぐうっ!!」
ヴォルトが苦悶の表情で武器を取り落とし、飛びすさる。
(……やった!)
ナティラが、そう思った瞬間だった。
ヴォルトが視線をこちらに向けた。
言葉はない。ただ、目が合った。
次の瞬間、ナティラの腹の中に重いものが出現した。
「ッ……!」
気づいたときには、腹から、真っ黒い棘が突き出ていた。
急激な目眩に襲われて、ナティラの世界はぐるぐると回転した。
――なにをされた?何も……見えなかった……
ナティラの口から、ごぼりと闇が溢れだした。
影がナティラを飲み込んでいく。
「ちぃっ!!」
キーマンがヴォルトに襲いかかる。
そこへ、再びヴォルトの影が伸びる。
キーマンは魔眼を向けて影を払おうとしたが、その前に――
ナティラの手が、彼女の首に伸びていた。
「な……に?」
もの凄い力だ。
ナティラに首をがっしりと掴まれ、
キーマンは視線を向けることができない。
その死角から、ヴォルトが近づいてくる。
手には、拾い上げた短刀を握っていた。
◆◆◆
感覚というものが剥がれ落ちた場所だった。
目も、耳も、肌も――すべてが自分から遠ざかっているのに、
なぜか、すぐそばで何かが蠢いている。
湖の底のようでもあり、深い森の中のようでもあり、
優しい抱擁のようであり、魔物の巣窟のようでもある。
俺にはっきりした輪郭はなく、しかし確かにここにいるのであり、
考える体であり、動く思考だ。
そして、俺は、もう俺――景山ナレだけのものじゃない。
赤い髪。黒い瞳。手足の水かきと、耳の後ろのエラ。
スラリと伸びた筋肉質の肢体に小さな乳房。男でもあり女でもある。
その形が、次第に、俺の意識に馴染んでいく。
気づけば、その姿が俺になっていた。
(……ユリカ?)
呼びかけても、答えはない。
手を開くと、そこには火がある。
炎の巫女の火。
そして――
目の前には異形どもがいた。
俺は、炎を握りしめたまま、そいつらを見つめた。
崩れた肉から突き出た骨、蠢く内臓のようなもの、仮面の中心で動く眼。
そいつらは輪郭が曖昧で、空間に溶けていた。
ユリカの魂に、沈殿物のように沈み込んでいる。
――焼き尽くしてやる!
そう思った瞬間、炎が指先に集まった。
熱が渦を巻き、火が凝縮していく。
俺は、その炎の塊を、異形の群れへと放り投げた。
異形たちは、いきなり動いた。
どろどろの肉塊が口を開くように広がって、俺を飲み込もうと迫る。
溶け崩れた獣のようなものが、地を蹴って突っ込んでくる。
他にも、無数の異形が襲いかかってきた。
鋭いもの、濡れたもの、硬質なもの、べたついたもの――
すべてが、俺に、ユリカに、牙を剥く。
俺は、腕を左右に広げた。
広げた手と手の間に炎が走り、炎の壁が立ち上がる。
異形たちはその壁に触れ、焼け、呻き、跳ね返った。
けれど、それでも止まらない。
折り重なるようにして、炎の壁を抜けてくる。
そのとき――
ドオオオッ!!
異形たちの背後で、大気が割れるような爆発が起きた。
炎が床を舐め、天井を焼き、闇そのものを吹き飛ばす。
さっき投げた凝集した炎が炸裂したのだ。
異形たちは苦悶の叫びを上げ、暴れまわり、逃げ出した。
広がる炎に、空間の外へ外へと追い立てられていく。
紅蓮の炎が、俺たちを包んだ。
しかし、熱くない。ダメージもない。
炎が皮膚を舐めても、ひんやりと気持ちがいいくらいだ。
いまの俺には、炎は優しい母親の手のようだった。
燃え盛る赤と金の海の中に、俺とユリカの魂は、ひとつの姿として、そこにいた。
ゆうゆうと。まるで、ここが最初から自分たちの居場所であるかのように。
――それは突然、現れた。
どこから?
分からない。ただ、現れたのだ。
「逃げて!」
ユリカが叫んだ。
実際に声を出したのは俺の口――俺たちの口だ。
次の瞬間――
俺は祖父の家の布団で目覚めた。
唐突に、なにもかもが変わった。
異世界から現実へと、時間も空間も飛び越えて移動した。
それなのに、俺は違和感を感じていなかった。
カチカチと柱時計の音がする。
窓の月影が、古い木造家屋の一室を青白く照らす。
俺は身を起こし、すぐ隣の布団に寝ている祖父母を見た。
まだ幼い俺には、二人がまるで死んでいるように見えた。
二人とも、天井を見つめて目を閉じたまま、ぴくりとも動かないから。
――かたり、と音がした。
障子が薄らと開いている。
黒いねっとりした闇がわだかまる隙間から、何かがこちらを見ていた。
人ではない、と分かった。かといって、霊でもない。
それは、畳張りの廊下に立っている。そこにいるのだ。
でも、入って来れない。
なぜなら、俺がここにいるから――
「…………ッ!」
俺は息を呑んで、目を覚ました。
両手に柔らかい人肌の感触。
まぶたを焼く激しい光で、視界は真っ白だ。
――苦しいッ!
呼吸ができない。空気を吸わなくてはならない。
駄目だ――喉の奥に何かがつっかえている。
心臓が早鐘のように鳴った。
知っている。このあと、耳がキーンとなって、そして――
ガンッ!
いきなり、側頭部をなにかに殴られた。
否、床に倒れて頭をぶつけたのだ。
「ッハ、ハアアアア……」
焼けた空気が肺に流れ込んできた。
焦げ臭い。しかし、窒息よりはましだった。
――さっきのは、子供の頃の記憶だ。なんで?
そう考えた刹那のことだった。
目の前で、ユリカが絶叫していた。
後頭部の光輝が眩しくて、ほとんどシルエットしか見えない。
だが、その表情が人間のものでなくなっているのは分かった。
まるで、猛り狂う獣のようだ。
頭上に炎の輝きを背負った小さな獣――
ユリカは、迷うことなく魔影使いに飛びかかっていった。




