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第30話:水底に死す――潜入、異界心都

まだ明けそめぬ草原に三つの影が消えていく。

子供の影、女の影、細い文官の影。


ルスカたちが正面から心都と対すれば騒ぎになる。

それが、戦士たちが平原に残された理由だ。


――頼んだぞ。我らもすぐに行く。


ルスカは心の中でナレたちに語りかけ、後ろで待つ隊へと振り返った。


「移動するぞ」


心都近くの森へ。

そこに、水の神殿だけがする入り口があった。


◆◆◆


森に入ってわりとすぐに、水の綺麗な淵があった。

ルスカは静かな水面を見つめていた。


「副長」


カオリオの声で、意識が現在に引き戻される。

背後には、装備を整えた小隊と、巨人たちの姿があった。


「隊を分ける。君は周囲の警戒と後詰。必要があれば水路を使って支援を入れてくれ」


「了解」


カオリオの返答は簡潔だった。

彼には既に伝えてある。クヴァとガルの心波は、距離があっても警戒信号なら通じる。

アラートが鳴れば、あとは力づくで門を開ける手もある。


ルスカは水馬ウユの首に手を入れ、心を整える。


「ここから先は、異界だ」


誰にともなく呟いたその声に、風が絡んだ。


「そのために、私がいます」


サリナ・メイヴァが歩み出る。

彼女の瞳は静かだが、どこか宙を測っている。

水脈に入れば、まともに息ができない。サリナの風術で空気を保持し、潜行が可能になる。


風の神殿と繋がりを持つ魔術師――

彼女がこの局面の鍵を握るだろう。


「風の神殿に入れば、対話は可能です。神ラグザは教団に敵対的です」


サリナは続ける。


「ただ、あなたの意志が必要です。交渉か、殲滅か」


ルスカは短く息を吐き、視線を潜入口に戻した。


「潰せるなら、潰す」


その一言で、全員が動き出す。


この静かな水面は心都へと続いていた。

まだ水の神殿が心都に拠点を持っていた頃、水馬リュミナが発見した。

リュミナが突然いなくなり、城門の外で発見されたのだ。


そして、衛士がひとり、リュミナとともに水脈を辿って心都内の水の神殿への通路を確認した。

その衛士が、当時一介の衛士だったルスカだ。


「この下に、道があるんですね」


衛士の一人がつぶやいた。


「ある。だが、道とは呼べない」


水馬ウユにルスカとサリナ。巨人一人が衛士一人を抱えて、そのペアが三組。全部で八人と一頭が潜入する。


心都へ向かうひとりであるクヴァが、水際に屈んだ。

青黒い指が水面をなぞると、わずかに気泡が浮かび、すぐに沈んでいった。


「何も見えない……」


「行けるか?」とルスカ。


「無論だ」


それ以上は誰も言葉を発さなかった。


サリナが胸元で印を組み、風を束ねる。

その術は音も光も持たない。ただ、肌にまといつく空気の層が密度を変える。

直後、ルスカは肺に微かな圧力を感じた。空気の膜が、喉から胸に沿って展開されていく。


「一時間は持ちます。無理に押し戻したり、払ったりしないでください」


サリナは静かに言った。


「行くぞ。私とウユが先行する。カオリオ、ガル=ソゥグ、あとを頼んだぞ」


ルスカの号令に、隊は順に水へ身を投じていく。

最後尾のクヴァが沈むと、淵は何事もなかったかのように静まり返った。


◆◆◆


水は冷たく、重い。

身体を包む風膜が、皮膚のすぐ外でゆるやかに震えている。

だが、それでも水の圧は逃れられない。呼吸ひとつにも慎重さが要る。


光はない。水馬は、まるで自分の領土を泳ぐように、迷いなく進む。


狭い。岩が近い。身を折らねば通れない場所もある。

水流が横からぶつかる。片手で壁を押さえながら、ルスカは隊列の乱れを確認した。


そして――それは、突如現れた。


ぬるり、と水が引かれた感覚。

視界の端で何かが、上下の区別もなく現れた。


白く、透けている。だが巨大だった。


水全体が脈動している。クラゲ――いや、水中の膜状巨獣が、眼前に現れていた。


「――散開!」

サリナが風の魔術による通信で指示を飛ばす。


しかし遅かった。

前列にいた衛士のひとりが、何かに巻き取られるように水中に消えた。


ルスカは反射的に光剣を抜いた――が、手応えはない。

糸のような触手が数本、岩の陰から伸び、さらに別の方向から襲ってくる。


巨人のひとりが壁を蹴って突進する。

しかし、膜の一部が反転し、鋭い内縁がその胸を裂いた。


鉄の匂いが鼻をかすめる。


――一瞬で、ふたりが沈んだ。


ルスカはウユを操る。水馬が反転し、水をかき回す。

サリナが拳を握ると、水の膜が砕け、泡が爆ぜた。


クラゲがたじろぐ。


クヴァがその隙をついて槍を投げ込んだ。

クラゲは岩壁に縫い付けられ、動きが鈍くなった。


『ついて来い』


クヴァからイメージがやってくる。

ルスカにはぼんやりとしか分からないが、心波よる通信だ。


狭い穴を抜け、残った者たちは、狭い箇所を突破した。


光――

微かな青白い輝きが、水の彼方に見えた。


水路の出口だった。


◆◆◆


水面を抜けた一行は、薄暗い洞窟に出た。

天井は石組みで、大きく崩れて微かな光が入ってきている。

そこは、かつての水の神殿の地下だ。


ルスカは記憶をたよりに枝道から地上に出た。

そこはかつての礼拝堂だった。


石造りの柱は半ばで折れ、ショロトルの像は横倒しになっている。

焚き火の跡、骨の山、打ち捨てられた荷物。人の臭いがした。


「……荒れてますね」


サリナが眉をひそめた。


巨人が地上に出るだけで目立つ。そこに、水馬が揃えば目立たないはずがない。


「なんだ、てめえら……!」


物陰から数人の男が現れる。

布のようなものを巻きつけただけの乱暴な服装。眼の光が濁っている。


「衛士か?ああ?」


「それは湖の巨人だな……何をしに来た」


挑発まじりの声。

何人かは酔っているのか、ふらついていた。


クヴァが一歩前に出ようとしたその時だった。


「待て」


静かな声が、闇の奥から届いた。


「相手が悪い」


男たちの間から、五十がらみの男が姿を現す。

頬に古い傷。草臥れた革鎧。だが、その目だけは冷静だった。


「約束を破ったと責めないでくれよ、衛士殿」


「……お前は」


ルスカの脳裏に、街道での記憶が蘇る。


「あのときの遺跡探索者。そうだな?」


男は笑わない。ただ、事実を述べるように言った。


「そこの水馬の水、美味かったぜ」


そう言って、男は周囲の酔漢に目を向ける。


「手を出すな。酔った勢いで相手にしていい連中じゃない」


「分かった風な口を利くな」


一人がつかみかかろうとしたその瞬間、レヴナーの足が音もなく動いた。

男の首筋に肘が入り、あっけなく地面に転がる。


「……言葉が通じないなら、こうなる」


沈黙。


「話をしよう。案内が必要だろ」


ルスカは短く問う。


「何が欲しい」


「金だな。たんまりあるんだろ」


「手持ちはそれほどないぞ」


「信用払いにしてやるよ」


しばらくの沈黙ののち、ルスカはうなずいた。


「分かった。だが、裏切れば即座に処断する」


「承知の上だ。俺はラドー」


ラドーは握手の手を差し出し、ルスカは握り返した。


◆◆◆


廃墟の路地を抜けていく。目的地は風の神殿だ。

かつて空中庭園と呼ばれた場所に、いまもその一角を保っているらしい。


ルスカは後ろを振り返る。

サリナが静かに続き、クヴァの背には疲れを見せぬ巨人の意志があった。

水馬には、いまは誰も乗っていない。滑るように動く水の塊に見える。


「言葉なき信者の会はだいぶ幅を利かせてるぜ。神殿で残ってるのは風と、あとは大地と虚だ。ギルドは中立っぽいが、本当のところは分からねえ」


ラドーが心都の現状を教えてくれる。


「風の神殿は教団と敵対していると聞いたが」とルスカ。


「ああ、神ラグザが異形の神を警戒して、それで心都に残ってるって話だ。

  でもよ、分からねえぜ。教団はどこにでも入り込んでる」


ルスカは、風の神ラグザは異形の神との共存を図るとも聞いていた。


「教団の目的と風の神殿の理念は、真っ向から対立しています」と、サリナか説明する。

「教団は、世界を異形の神に返そうとしていると聞きました」


「風の巫女は信頼できる」


朝がやってこようとしている。

夜の底からやってくる青白い光に、巨大な台形の空中庭園が見えてきた。


◆◆◆


その頃、心都郊外の野営地で、カオリオが巨人とともに空を見上げていた。


「順調だ」と、ガルが言った。

クヴァからの信号があったのだろう。


アーマ=ヒは、立ったまま彫像のように動かない。

主人である炎の巫女ユリカの心配をしているのだろうか。


「行け……ルスカ。お前の選択を、俺が支える」


カオリオは静かに呟いた。


夜が、ゆっくりと明けようとしていた。

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