第2話:異世界で早速、俺、即死!?
暗闇の中、微かな光が揺れている。
四角い何かが、ゆっくりと沈んでいく。
箱か?違うかもしれない。
沈みゆく四角いものの向こう、遥か下で光点が動いている。
否――からみ合い、蠢いている。
あれは、まずい。
体の奥で警鐘が鳴る――逃げろ!
そう思っているうちに、光がいくつか向かってくる。
生き物だ、絶対――しかも、でかい!
俺は必死に水を掻いた。
上へ、上へ――ゆらゆらと揺れる光を目指して。
だが、思ったより遠い。
全然近づかないじゃないか!
水底なんて見ている暇はなかった。
最初から、必死に水面を目指すべきだった。
息が続かない。
鼻から口から、大量に水が入ってくる。
――ちがう、水が欲しいんじゃない!
でも、飲むのをやめられない。無理矢理入ってくる。
――あれ?揺れる光が暗くなっていくぞ。
俺は沈んでいるのか? それとも……
そのとき――
何かに掴まれた!?
違う、引きずり込まれるんじゃない……支えられてる!?
細い腕が、俺の体に巻きつく。
背中に密着する温もり。柔らかい――
揺れる光が、ぐんぐん近づいてくる。
俺は浮上している!
程なく、一気に水面に出る。
空気を吸おうとしたが、吸えない。
咳き込んで、水を吐き出すばかりだ。
――もう……無理……だ……
視界が暗くなっていく。
音も、光も、感触も、遠のいて――
◆◆◆
うっ……うっ……うっ……
――苦しい、押すな。
うっ……うっ……うっ……
――おい、いい加減に……!?
唇に柔らかいものが触れる。
――え?
肺に空気が流れ込む。
「ぐぼっ……ごほっ、ごふっ……は、はぁぁ……」
口の端から水が流れ出て頬を濡らす。
俺は目を開いた――
……こんな衝撃を味わったのは初めてだ。
体の痛みも苦しさも忘れて、俺はただただその人を見つめた。
――なんて美しいんだ。
初めて知ったよ。
あんまり美しくて、綺麗で、光って見えるなんてことがあるんだな。
「大丈夫?聞こえる?」
日本語だ。
否――耳に聞こえるのは違う。でも、意味は分かる。
「ここは……どこですか?なんで……俺、生きてる?」
相手は美しい目を丸々と開いた。
黒目が金色の線で縁取られた不思議な瞳をしている。
――とても、この世のものとは思えないな。
「あなた、共通語が喋れるの?」
――通じた?
「いや、俺が喋ってるのは日本語――いてっ!?」
俺は体を起こそうとして、背中の痛みにうめいた。
体の下に尖った石の感触を感じる。
「ゆっくり起きて。引き上げる時、どこか打ったかも」
満天の星。
祖母の家で見たような、世界をおおう光の天井。
そして、丸々とした大きな月。
心地良い水音。
ひんやりとした風が頬を撫でる。
そこは湖のほとりだった。
月の光に、湖面が黄金色に輝いている。
大地は黒々として得体がしれない。
そして、ただ一人――金色の美少女が俺を見下ろしている。
俺は上半身を起こした。
「ここは、どこですか?」
美少女が小首をかしげる。
「ネミ・ショロトル――えっと、ネミ湖のほとり……だけど……?」
――ネミ湖?聞いたことがない。
美少女の首がさらに角度を増す。
なにか腑に落ちないことがありそうだ。
「あれ……なんで……?」
そして、何かに気づいたように息を呑む。
「あっ!」
美少女は跳ねるように立ち上がった。
そこで、俺は初めて気がついた――黒い長髪、白い服。
――この子が俺を連れてきた?
「逃げなきゃ!」
美少女が俺の手を引く。
冷たい華奢な手――俺の命を救った手だ。
そして多分、俺をここへ連れてきた手。
その時だ――
大地を踏む重い音が静寂を破って轟いた。
「いたぞ!あの女だ!」
男の叫び声に、他の声がすぐに応じる。
重い音が、かさなって大地を這い、胸を震わせる。
「立って!早く!」
美少女に手を引かれて、俺は立ち上がった。
「湖へ!」
走り出す。
――痛え!裸足じゃねえか!
「ちくしょう!」
そうだった。俺はさっきまで寝てたんだ。
Tシャツと下着にスウェットを着た姿。
「つまり寝巻きだよ!」
美少女が湖に走り込んでいく。
俺も後に続いて――
「って、おい!」
足を踏ん張ってブレーキをかける。
手を繋いでいる美少女が、たたらを踏む。
「ちょ、服!このままじゃ――!」
「なにしてるの、早く!」
どんっ!――突然、誰かに肩を強く叩かれた。
衝撃に、俺の体が180度回転する。
湖に向けて4頭の馬が駆けてくるのが見える。
どんっ!
今度は左肩に衝撃――白いものが突き刺さった。
視界の端で、それが揺れる。
俺は回転しながら、遅れてやってきた、ヒュッという風切り音を聞いた。
弓矢だ!
俺は両腕をでんでん太鼓みたいに振り回しながら、もんどり打って倒れた。
「ぐあああああ!」
激痛が後からやってくる。
「ああっ!」
悲痛な叫び声を上げて、美少女が俺にすがりつく。
――せっかくの服が汚れるぞ――あれ?なんで俺こんなこと……
痛みとショックの中で、俺は少女の金縁の瞳が涙ぐむのを見た。
大地を叩く蹄の振動に体が震える。
――白いドレス姿が立ち上がった。
俺と四頭の騎馬の間に立ち塞がる。
背筋をまっすぐに伸ばした姿を、月影が闇から切り離す。
その凛とした佇まいに、俺は神前に立つ巫女を思い出した。
騎馬は数メ―トル離れた位置で止まった。
馬に乗った人間がこれほど恐ろしく見えるとは思わなかった。
まるで黒い巨人のようだ。
「アウラニス・アウレサ」と、男の声が言った。
「何者だ。ショロトルの巫女への狼藉、神の怒りに触れるぞ」
落ち着いた、地を這うような声。
同じ美少女が発したものだと理解するのに少し時間がかかる。
――この子の名前と――巫女?やっぱりか。
騎馬の後ろから、さらに徒歩の者が現れた。
その数――10人以上だ。
先頭の賊が剣をすらりと抜き、他の3人が弓を引き絞る。
徒歩の奴らがじりじりと散開して回り込み、俺たちを半円形に取り囲んだ。
背後は湖だ。
と――
美少女――アウラニスが低く囁きはじめた。
リズムと抑揚があり、空気に――世界に何かが浸透していくのを感じる。
だが――
弓弦が鳴り、黒髪が舞い上がる。
俺のすぐ横に、矢が突き立った。
アウラニスの詠唱が止まる。
「魔法は勘弁してくれよ――姉ちゃん」と、剣を抜いた賊が言った。
「……何が目的だ」と、アウラニス。
「あんたの命」
「――じゃあ、この人は関係ない」
アウラニスはこちらを振り向かない。
そのかわりに、賊どもの視線が一斉に俺に集まるのを感じた。
「湖に落ちたわたしを助けた、たまたま居合わせただけの人だ」
アウラニスが少し動いて、俺をはっきりと背中に庇う。
賊どもが彼女の動きに鋭敏に反応して、狙いを微かに調整する。
「あんたの頼みを聞く義理はないね」
男は剣を持っていない手を、すっと上げた。
「巫女に恥をかかせるのか」
微動だにせずにアウラニスが言う。
「悪いが」
男が腕を振り下ろす。
しかし、それより前に、俺はアウラニスに背後からタックルをかました!
3本の弓矢が、一瞬前まで彼女がいた空間を切り裂く。
「があああああ!」
アウラニスを肩に担ぎ、湖に向かって全力ダッシュ!
どどどっ!!
背中に3本の矢が突き立つ。
胸を内側から焼かれるような激痛。
肺がぎゅっと縮み、血が口から溢れ出す。
――根性だっ!
俺は力を振り絞って、アウラニスを湖に向かって投げた。
とは言っても、俺の力じゃ1メートルどころか数十センチが関の山。
それでも、少しでも湖の方へ。
湖にさえ入れば、彼女の泳力なら逃げ切れるはずだ。
「グギュウ!」という蛙がつぶれるような音がした。
いや、蛙がつぶれた音など聞いたことはないが。
――美少女からもこんな音が出るんだな。
などと、ほんわかした気持ちになっている暇などなかった。
全身を引き裂かれるような激痛に、体が弓のように反る。
俺はのけぞったままぶっ倒れた。
――くそう、息が吸えない……痛え、痛えよ!
アウラニスは鋭い石だらけの河原にばったりと倒れている。
顔面からいったから、かなり痛かっただろう。
――でも頑張れ!立て!飛び込め!
薄れゆく意識を必死に繋ぎ止めながら、俺は心の中で叫んだ。
「殺れ!」
周囲でいっせいに金属音が上がる。
石を蹴散らす足音。
――なにやってるんだよ!せっかく……!?
世界が変わっていく。
ゆったりとしたリズムに乗って波のように広がる詠唱。
アウラニスの指先が湖の水に触れている。
「弓だ!射殺せ!」
男の声と同時だった。
湖の水が、怒り狂った猛獣のように賊どもに襲いかかる。
そして――
まるで湖が立ち上がったかのように、黒い壁がそそり立つ。
高所から一気に落下した大質量の水が賊どもを河原に叩きつけた。
そればかりか、水は賊どもをその体内に包んだまま動かない。
賊どもは喉をおさえて、泡を吐き出しながら苦しみもがいている。
湖のほとりにすっくと立つ白い姿。
俺の返り血で赤く斑らに染まったドレスが、凄惨な美を讃えている。
その瞳に金色の縁取りが見える。光っている。
そして後頭部にひときわ輝くなにか――
――水滴の形をした光る水の塊……中に何かいる?
「化け物め!」
さっきまで馬上から話をしていた男が、いきなりアウラニスに切り掛かる。
あっ!と思った瞬間――
俺は男の前に両手を開いて立ちはだかっていた。
左肩から右脇腹まで熱線が走る。
その瞬間、ベキィッ!という肋骨の砕ける音が、俺の世界の全てだった。
――俺、即死!?