第16話:その剣は、まだ誰かを守れるか
その夜は、どこか嘘くさかった。
湿った風が頬をかすめる。森から吹くにしては、妙に無機質だ。
空には星が戻ってきていたが、やけに冷ややかに見える。
――命の匂いが、薄い。
違う。そう感じているのは自分の内側だった。
神衛士副隊長ルスカトリ・カスティナ・ポチテカは、水の神殿塔の回廊を歩いていた。
隣を若い副官がついてくる。
「副長……ご報告に参りました」
副官のカオリオ。真面目な若者だが、いまは目元に疲れがある。
「報告を」
淡々と告げて、ルスカは足を止める。高窓から星が見えた。
「リンズとパリティオは生存、水馬の位置は不明、追跡班は撤退しました」
唇を引き結ぶ。暗虎――影手の一族だけが操る獣。それが唯一の手がかりだ。
だが連中の拠点も、雇い主の素性も分からない。
「それと……オクシト巫衛士が帰還しました」
風が揺れる。ルスカはしばらく星を見つめた。
「お前は、オクシトと親しかったな」
「はい」
「そうか。……部屋に戻っていてくれ」
カオリオが去ると、夜の静けさが重く肩にのしかかった。
ルスカは踵を返し、階段を下りた。
◆◆◆
夜間待機用の私室。
衛士が無言で扉を開けると、整った姿勢でオクシトが座っていた。
「お越しになると思ってました」
「――どういうつもりだ」
抑えた声で、ルスカは言う。オクシトは穏やかに応じた。
「負傷者を後送するための迂回路の確保に回っていました。
その過程で合流地点を逸れたため、神殿への帰還を優先しました」
過不足のない、まっすぐな報告。しかし――
「そちらではない」
ルスカが求めているのは、もっと前の出来事についてだ。
「……巫女アウラニスの出生村が、カルナカン覇国の戦禍にあっていると知り、本人の望みに従いました」
ルスカはその目を見つめた。昔と変わらぬ、まっすぐな優しさ。
「お前が、神殿から出したのか」
小さくうなずいたその顔に、迷いはない。
――分かる。だからこそ、怒りがわく。
アマヤの「自由になりたい」という一言に、どれだけのものが背負わされているのか。
オクシトこそ、それを痛いほど知っているはずなのに。
「情報源は?」
「言えません」
「巫術での尋問、覚悟しておけ」
ルスカは立ち上がった。
「オクシトを結界牢へ。見張りを追加」
それだけ告げ、部屋を出る。
――必ず、アマヤを取り戻す。それ以外は、心の底に沈めておけ。
◆◆◆
薬草と金属のにおい。わずかなアルコールの蒸気。
ルスカはノックをせず、静かに取手を回す。
――まだ起きてる。
炉の熱気が胸元を撫でる。
中にいたのはナティラ。
作業机で何かを解体している。道具を扱う手に無駄はない。
「あら、夜に来るなんて珍しい。……また光剣、焼いたの?」
振り向いて、軽く笑う。
ルスカは無言で光剣を渡す。
柄の部分には、焦げのような筋が一本走っている。
ナティラはすぐに作業を始めた。
手袋をつけ、拡張レンズを下ろし、古代語の走る回路へと工具を差し込む。
室内は、ほとんど私物で占められていた。
教本ではなく、ナティラ自身が編んだと思われる記録帳。
分類されていない遺物の欠片。明らかに神殿備品ではない酒瓶。
――いつも通りだ。
神殿の奥で、ナティラはいつだって自分だけの秩序を守っている。
「椅子、空いてるわよ。疲れた顔してる」
「してない」
「してる。副長の悲哀が滲み出てる」
ルスカは小さく息を吐いて、扉の脇の椅子に腰を下ろした。
ナティラはルスカを見なかった。
光剣の開口部から何かの素子を抜きながら、口を開く。
「オクシト、帰ってきたってね」
ルスカの胸が、一瞬、波立つ。だが表情には出さず、静かに指を組む。
ナティラの部屋は静かだった。外界よりも、夜が深い。
「それ、飲みな」
棚の酒瓶のことだろう。
ラベルは剥がれているが、色合いからして中身は強い部類だ。
「お客さんたち、ルーちゃんが来ないってブーたれてるよ。たまには顔を出しなよ」
ナティラが言っているのは『スナック月舟』のことだ。母が働いていた店。
「副長がホステスって、バレたら騒ぎよ?」
「勘弁してくれ」
酒瓶を取る。栓を開けた瞬間、辛口の果実酒特有の鋭さが鼻をつく。
それだけで、指先にかすかに汗が滲んだ――もう識心のめぐりが変わっている。
飲み込むころには、胸の奥までじんと熱くなっていた。
「お酒、弱くなった?」
「……逆だな」
知らぬ間に乾いていた喉を、酒が水のように通っていく。
識心が動く感覚。酒はルスカの識心を活性化させる。
アマヤが常態としている深度には、到底及ばないが。
音が重なる。ナティラの呼吸。作業机のきしみ。
外の風がどこかで柱を擦る気配までが、皮膚に触れてくる。
やがて、自分が「誰だったか」が立ち上がってくる。
ポチテカ家を出た日。
祖母の家の廊下に置かれていた、酒の染みついた古い座布団。
父の奔放な声。母の誇りある剣。
自分の名前を呼ぶ音の違いを、子供ながらに感じ取っていた。
剣よりも先に、声が届いた日。
声よりも先に、剣を握った日。
――あの頃の自分と一緒に、私は今ここにいる。
「……あんた、あのとき泣いたのよ」
ナティラが言った。ルスカは顔を上げた。
「覚えてないかもしれないけど、訓練生の頃。夜にお父上が来て、護衛が揉めて。あんた、あのあと泣いてた」
「……覚えてる」
視界がわずかに滲んでいるのは、酒のせいにしておく。
「泣いてたけど、あんた、誰にも頼らなかったのよ。
それであたし、『ああ、この子は強くなっちゃうんだな』って思ったの」
ナティラの声は、機械油と薬草の匂いに混ざって、穏やかだった。
「いまのあんた、ちょっとだけ、その時に似てる」
ルスカは答えなかった。
「ねえ、ルーちゃん。たまに月舟に帰らないと、ちゃんと泣けなくなっちゃうよ?」
ナティラが光剣を差し出す。
ルスカは空になった瓶を置き、光剣の柄に指を添えた。
体が、ようやく思い出している。
何のために剣を抜くかではなく――剣を抜ける自分が、まだここにいることを。
――ドンドンドン!
「失礼します!」
突然、静かに流れていた安らぎの時間が破られた。
副官のカオリオが、返事も待たずに飛び込んでくる。
「副長、やはりここでしたか!」
ルスカの顔が、即座に副長のそれに変わる。
「どうした?ここは繊細な作業部屋だ。もっと慎重に――」
「『開かずの門』が開いて、巨人どもが現れました!」
「……なんと言った!?」
報告の内容を理解するまで、ルスカは言葉を三度も繰り返させた。
――神話ではなかった。数百年にわたる神殿の謎が、いま動き出している。
巫女の逃亡から始まったこの一連の事態がどこへ向かうのか。
いまのルスカには、まだ手がかりすらなかった。




