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第14話:巫女の願いと草原の魔影

アマヤは森を駆けていた。

できるだけ遠くへ――捕まれば、もう戻れない。


泥と腐葉の匂いが空気に溶け、肌を撫でていく。


背後で、黒い獣の咆哮がひとつ、遠ざかるように響いた。

追ってくる気配はない。キツネはまだ動けずにいるのか、それとも――逃してくれたのか。


そんなはずはない。

彼らは仕事で動いている。命令があって、連れていくべき相手を確保しているだけだ。情などない。


――湖へ。


たどり着きさえすれば、そこはショロトルの加護が届く場所。

水の神に繋がる、アマヤ自身の領分。あとのことは、それから考えればいい。


方向も距離も分からない。けれど、大きな水の気配は感じる。

アマヤはひたすら、識心が示す方向へと走った。


「――っ!?」


ぞっとする恐怖とともに、アマヤは止まった。


豪雨のあとの靄の中に、何かが立っている。

最初は樹だと思った。でも、違う。


見上げるほど大きな異様の影が、木肌に身をあずけて、じっと立っている。


――まさか。


それは、たくさんの足でゆっくりと歩いてきた。

細く長い、節のある脚。楕円形をした殻のような体。

尾のような触手が背中で揺れている。


巨大な蟲だ。


頭はない。首もない。でも――こちらを見ている。

あの殻の前面に眼孔がいくつも開いているのを、アマヤは知っている。


「お前、どこから来たの?」と、アマヤは声をかけた。


これは水を失った水馬だ。

沼に水を感じて休んでいたんだろう。

水は水馬の血であり肉であり、命だ。


「そんなに干からびて……苦しかったでしょう?」


言ってからアマヤは、それは自分も同じだということに気がついた。


――大丈夫。水ならまわりにたくさんある。もうちょっと回復すれば。


水馬の前脚がアマヤの方に伸びてきた。

鎌のようになった鋭く尖った先端が、頭上高くに振り上げられる。


その様子は、まるでアマヤを突き刺そうとしているかのように見えた。


それは、ルスカの愛馬リュミナがいつも見せてくれた、甘えるときの仕草だ――


黒い影がアマヤの前に躍り出た。


ピュンッという空気が裂けた。直後、固いものが砕ける音が、ぬかるんだ森に響いた。


一瞬の、本当に一瞬の出来事だった。

アマヤは、ただ目に映ったものを見ていることしかできない。


あたりの識心が激しく震えた。水馬が悲鳴を上げているのだ。


黒い体液が飛び散った。見えたのは、斬られた二本の脚。

水馬の前脚の先端が、ざっくりと断たれていた。


影はまるで無音の稲妻のように跳躍した。


(ダメ!やめて!)


声では間に合わない!


アマヤは、全力で識心を放った。

あたりかまわない、音のない爆発。


森中の鳥が飛び立つ。ごおお、と地鳴りのように森が鳴る。

沼に小さな生き物が、次々に飛び込む音が激しい雨音のように続く。


その中心から、アマヤは目に涙を溜め、唇を震わせて水馬を見上げた。


黒い少女が水馬の体の上に立ち、不思議そうにアマヤを見下ろしていた。


◆◆◆


水馬は沼につかって体を休めている。

背中に見覚えのある鞍。刻まれた文字で名前が分かった。


ウユ――それがこの子の名だ。

きっと、ルスカたちと一緒にアマヤを探しに来たうちの一頭だろう。


――湖から離れて、こんなところまでわたしを追ってくるなんて。


焚き火を起こしたのはウサギ――暗殺者の中のひとりだ。

アマヤは、イタチにもらった干し肉を噛んでいる。


まわりには、暗殺者たちがくつろいでいた。ヌマヒルダケとの戦闘の傷を癒しているのだ。

なかでもキツネの傷は重く、黒い少女が軟膏を塗ってやっている。


キツネがこちらを見て、仮面を取った。

イタチとウサギが驚く気配が伝わってくる。少女は手を止めない。


「俺の名はクガツ。あんたに借りができた。命の借りは大恩だ。返させてくれ」


男の顔は傷だらけだった。歳は三十代か四十代。

黒い髪に黒い瞳。眼差しは鋭く、あくまで真剣だった。


「仕事はやらないとダメだよ」と、少女が言った。


クガツはぎろりと少女を見て、


「分かっている。そのあとの話だ」


「わたしはどこに連れて行かれるの?」と、アマヤが聞いた。


クガツは少女と目を合わせ、少女がうなずいた。


「お前を依頼者に引き渡す。この森の外れで落ち合う算段になっている」


(誰の頼みかなんて、答えてくれるはずがない)


アマヤはため息をついた。


「じゃあ、お願いなんて――」


――いや、ある。とても大切な願いが。


「クガツさん」


アマヤは、クガツの目をしっかり見て、言った。


「わたしの故郷の村を救ってください」


クガツは何も言わず、目で続きを促した。


◆◆◆


アマヤは暗虎の背に揺られていた。前に座るのは黒い少女――カゲ。


クガツはイタチの後ろに乗り、もう一頭の暗虎にウサギが乗っている。


アマヤはうながされるままに少女の体に手を回したが、その体は見た目とおりに華奢だった。


――この細い体で人間離れしたあの動き。それに、この人たちを率いてる。


無口な少女に興味を持たずにはいられなかったが、いまはアマヤ自身の行く先を心配すべきだった。


このあと、アマヤは何者かも分からない相手に引き渡される。

それが誰なのか、なんのためになのか、彼らはなにも教えてくれなかった。


――水の巫女をさらう目的のある人たち。


ルスカやオクシトから聞いていた名前がいつくか思い浮かぶ。

影の神殿、炎の神殿、もしくは水の神殿の内部。それに外の貴族や隣国。


――ダメだ。


アマヤの知識と経験では、絞り込むことは不可能だった。

いまは回復して、生き延びる。


携帯食料と暗殺者たちが使っていた秘伝の軟膏が、腰に下げた皮袋に入っている。

皮袋ごと、クガツがくれた。


(よし!)


クガツがアマヤの願いを請け負ってくれたのも大きい。

水馬ウユも、沼の水で体を構成して湖に帰った。


――あの子が来た理由は……まあ大体分かるけど、いまは考えないことにする!


神ショロトルのことを頭から追い出して、気合を入れ直す。


くすり――と、前に座る少女が笑った。

識心を通して、気合が伝わってしまったのだろう。


やがて、樹々の密度がほどけ、前方にひらけた空気の流れを感じた。


黒い獣が足を止める。


そこは広い平原だった。雲間から顔をだした月が照らす草原を風が渡っていく。

まるで湖の面のように、輝きうねる銀色の波。


(ラオナ平野だ。北に抜けたんだ)


暗殺者たちは無言のまま動かない。

暗虎の、ふっふっという呼気が風に消えていく。


風が途切れた。


ぞくりと背筋を這うものがあった。全身の毛が逆立つ。


アマヤは、ごくりと唾を飲んだ。


――なに、これ…… !?


すぐそばの樹の陰から、滲むように灰色の男が現れた。


アマヤの尻の下で、暗虎の背中がぐっと固まる。

少女の体は何も変わらない。ゆったりとリラックスしたままだ。


男は腰までのマントのフードを上げた。

月光が、中年の男の顔を照らし出す。


短くした黒髪に白いものが混ざっているが、顔立ちは三十代前半。

緊張感のない、街の果物屋にでも立っていそうな男だ。


「少し遅れたね。雨だし、仕方がないか」と、男が言った。


暗虎が一歩、後ずさる。アマヤの背に、嫌な汗が浮かんだ。


――この人、何かおかしい。


アマヤは死を宣告された気分だった。


(絶対について行きたくない)


そう思った。

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