第10話:瞬間、心、重ねすぎに注意!
まぶたの裏側に焼きつく、消えない残像――誰かの思い。誰かの怒り。誰かの祈り。
俺の内側で蠢く、波のようで、熱のようで、音のような、それは2人のマナスだ。
そう、これが――「マナス」と呼ばれるものだ。
心波を伝える媒体で、声に対する空気のようなものだ。
2人を受け入れたことで、この世界の知識が少しずつ、俺の中に染み込んできている。
彼らの言葉にならない対話は、理解より前に、直接全身に染み込んでくる。
視覚に匂いを、聴覚に味を、嗅覚に手触りを、味覚に景色を、触覚に響きを。
胸に軋みを、骨に感情を――残していく。
俺はすでに「聞いている」のではなく「溶けている」。
クヴァは「我らはやらない……とても個人的なことだから」と言っていた。
その意味がいまなら痛いほど分かる。
いま、俺の顔は真っ赤だ。
真剣な対話をしている2人の間に全裸で立っている――
比喩でもなんでもない。いまの俺の姿、それだ。
――恥ずかしすぎる。
しかし耐えろ。自分で買って出た役割じゃないか。
これもきっと修羅場。精神的な成長につながるはずだ――そうあれ!
この恥ずかしさも開きなおりも、赤面も心の涙も、彼らには伝わっている。
二人の心波が接触と拒絶を繰り返しながらも、近づいていくのを感じる。
なんとなく和解ムードになっているような、そうでもないような。
――そして、二人して俺のことを笑っているような。
とにかくなんでもいい。話をすれば色々なんとかなるもんだ。
話し合いではどうしようもなくなる前に、話し合うんだ。
がんばれ、二人!
……と思っていた矢先だ。
なにか、妙だ。
2人のマナスの往復に慣れてきた俺の中に、もうひとつの感触が入り込んでくる。
クヴァでもない。ガルでもない。そのどちらとも違う。
生き物の感触がないのだ。
ただ、在る――
――これ、さっきの。
「……っあ?」
呼吸が詰まった。
心拍がずれる。体の感覚が少しずつ後ろにずれていく。
吐き気ではない。ずれだ。
俺が俺の中にいなくなるような、奇妙な感覚。
――強力なんだ。
心波が鋭く強い。
ビームのように絞り込まれている。
――これは、なんだ――いや、誰?
分からない。
でも、明らかに何かが入ってこようとしている。
「おい……クヴァ……ガル……っ!」
言葉が出ない。心もうまく動かない。
俺は目を開いた。
巨人たちがどよめいている。
見ると、クヴァとガルが白目を向いて泡を吹いている。
ガルのそばにいた巨人の女が、怒りの形相で俺に向かってくる。
「待ってくれ…………ッ!!!」
俺は、強引に心象の世界に引き戻された。
クヴァとガルも同じ場所に縛られているのを感じる。
それは言った。言ったように思えた。
いや、厳密には、条件を示した。
<アマヤを救え>
あの美しい巫女アウラニスの姿が一瞬、脳裏に閃いた。
イメージが雪崩のようにやってくる。
俺の脳じゃ、処理できない――
………………。
…………。
……。
気がつくと俺は、もの凄い力で潮臭い地面に押し付けられていた。
でかい手が後頭部をギリギリと締め付ける。
左腕が捻り上げられて、少しでも動いたら肩が外れそうだ。
脳にバケツ一杯の情報をぶちまけられて、処理が追いついていない。
頭の奥で、「アマヤ」が色んな情報の形をしてぐるぐる回っている。
「…………リェン=ナグ、離せ」
低い、どこか揺らぎを帯びた声。
「しかし、ガル=ソゥグ……」
俺の頭の上から声が聞こえる。
人間の女に比べればとても低いが、女の声だと分かる。
「――離せ」
後頭部を押しつける力が引いた。左手も解放される。
肩をおさえて身を起こす。
クヴァが立っていた。目の端に白い泡の痕がある。
反対側に、ガルが槍を突いてひざまづいている。
リェン=ナグが心配そうによりそう。
2人とも無言。表情は困惑気味。
そもそもの無表情からすれば、だいぶびっくりしてそうだ。
「なあ、今のって……」
言いかけて、俺は言葉を呑み込んだ。
たぶん――「ショロトル」が、俺に直接、何かを流し込んできた。
感情じゃない。説明もない。ただ前提だけが送り込まれた。
彼らも、俺と同じものを共有している。
その痕跡は、目にも、口元にも、そして沈黙の重さにも表れている。
「お前は、はじめてだろう」と、クヴァが、ガルに言った。
ガルは沈黙していたが――
「あれが、ショロトルか」
「ナレに、神が答えた」
クヴァが俺を見る。
ああ、たぶんそうなのだろう。
「接点で待つ、と伝えてきた」
――?
俺には分からなかった。
クヴァには分かったのだろう。
彼女もまた巫女なのだ。アウラニスと同じように。
俺は無意識に唇を舐める。ひどく乾いている。
そのくせ、手のひらは汗で濡れていた。
「……ちょっとだけ、待ってくれ」
――俺はなにをしてたんだっけ?
俺の目的。
ショロトルはそれをはっきり提示してきたと思う。
――帰還。そうだ、帰るんだ。
でもなぜ、アマヤ?アウラニス?――なんだ?
否、彼女が俺をこの世界に連れてきた。無関係なはずはない。
ガルが小さく鼻を鳴らした。
「あれは命令だ。また、偏った」
その言い方は、拒絶というよりも諦めに近かった。
「――連れて行ってくれ」と、俺は言った。「どうなるか分からないが、少なくとも帰り道に踏み込める。そうだろ?」
クヴァがわずかに頷いた。「水の空へ」
その言葉に呼応するように、周囲の巨人たちが静かに道を開ける。
視線は、俺にだけ注がれている。
この数分で、完全に立場が変わってしまったことが分かる。
クヴァが先に歩き出す。その後ろを俺が追う。
ガルは何も言わず、少し離れてついてくる。
足元がふよふよとして、やっぱり歩きにくい。
巨人たちには、きっと歩きやすいのだろう。
――ていうか、やっぱり変だよ、この街!
どっちが上か下か、分からなくなってくる。
水が空になってるし、たぶん重力がおかしいんだ。
それが、この足と体のふわふわ感の原因だ、きっと。
彼らのリゾート地でくつろいでいた巨人たちが、いつの間にか道端に並んでいる。
みな、耳の後ろのエラを頭にぴたりとつけ、
両手の平を上向きに差し出し、水かきをいっぱいに開いている。
敬意と受容のポーズ。
形式で心を示すのは、どの世界も変わらないようだ。ちゃんと伝わる。
もうどこに向かっているか、俺には分かっている。
岩の向こうに見えている太い水の柱だ。
水柱は水の空アウリカナに繋がっている。
――さて、問題があるぞ。
普通、気づくよな。
「クヴァ、俺にはエラがない」
クヴァがギョロリとこちらを見た。
後ろから、水に空気を吹き込んだようなゴボリという音が聞こえてくる。
分かるぞ、リェン=ナグ。お前、いま吹き出しただろ。
「問題ない」と、クヴァが言った。
もう顔は前を向いている。なんとなく雰囲気がおかしい。
近くにくると、水の柱はあまりにも神秘的だった。
流れはなく、まるで風のない湖のように静かだが、中はゆっくりと動いている。
どこまでも透明で、向こう側の景色は、揺れる水色の幻だ。
ひんやりとした空気が、水の柱に近づいたことでいっそう冷たくなったようだ。
何人かの巨人たちが、水の空へと上がっていくのが見える。
意外に速い。イルカのようなスピードだ。
「さあ」
クヴァが俺の方を向いて、両手を開く。
顔は横を向いている。
――?
「なんだ……?」
頭の中にイメージがやってくる。
――え、そうなの?
俺はおずおずとクヴァの両手の中に歩を進めた。
背後からまた、ゴボリと聞こえる。
――おい、リェン。
クヴァの抱擁は冷たく、柔らかかった。
俺たちはそのまま水の柱に入った。恐怖は感じない。
まるで、もといた場所へ戻っていくような、懐かしい感じがする。
なんでだろうな――祖父母の家ですごした、あの夏の日々を思い出す。
網戸だけの開けっぱなしのサッシから吹き込む、涼しい夏の夜の風――
水の温度は20度を下回っているだろう。肌がぐっと縮むのを感じる。
重力がなくなる。浮力がやってきたと言ってもいい。
クヴァが俺の体を離した。
体が浮き上がって、クヴァと目が合う。
やっぱり、どう見ても人間じゃない
輪郭の形が違う。目鼻の位置も人間離れしている。顔は俺より大きい。
でも、分かる。
――もの凄い美人だ。しかも絶世の。
クヴァの唇が、俺の唇に重なった。
風鈴を揺らす涼しい風のような空気が、俺の中に入ってきた。




