第1話:ぬくぬく生活、強制終了――俺、何かした!?
――君はどこに住んでる?
都会?それとも田舎?
都会なら、夜空を見上げても星はあんまり見えないよな。
祖母の家では星がよく見えた。
祖母がくれたアイスを舐め、虫の音を聞きながら、星空を見上げた。
世界の半分が満天の星におおわれて、体が夜に溶けていきそうだったよ。
今も、俺は星に囲まれている。
この星々――
目を凝らせば無数の星が輝き、手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じる。
けれど、俺のまわりには何もない。ただ空間があるだけだ。
やがて、その星々がぐるりと回りはじめた。
胃が持ち上げられるような感覚。
俺が動いているのか、それとも星々が回っているのか……
いや、おそらく動いているのは俺だ。
その証拠に、視界に惑星が入り込んできた。
見る見るうちに大きくなる。
緑と青の惑星――水の星。
地球か?
――違う。
大陸が見たことのない形をしている。
ここは、俺の知る星じゃない。
そして、変わる。
何が?
心が。感情が。
突如、星々の輝きをさえぎっていた巨大な影が崩れ落ちた。
黒い塊が弾け、割れて、それぞれに散っていく。
ここは理想郷【アルカディア】ではなかった。
なぜなら――奴らがいた。
闇に蠢く、言葉を持たない異形のものども。
心の闇と宇宙の深淵をつなぐ、未知のエネルギーを操る存在。
俺たちは奴らを理解しようとしたが、知るほどに恐怖もまた増していった。
この恐怖には覚えがある。
いつも見る夢――。
何者かの影がゆっくりと階段を登ってくる、あの悪夢と同じだ。
<……どこだ……どこにいる……>
勘弁してくれ。
<……我の……守って……>
◆◆◆
目が覚めた。
ガバッと飛び起きる元気はない。
心臓を鷲掴みにされたような冷たい感覚が、まだ体を支配していた。
天井が遠い。空気が冷たい。
汗のせいか皮膚感覚が鋭敏で、世界が妙によそよそしい。
――今のは、なんだ?
俺――景山汝は、ただ仰向けに横たわったまま動けずにいた。
その時、スマートホンが鳴った。
心臓が痛いほど跳ねる。
このアラームの音は目覚ましだ。
俺はひとつ深呼吸をしてから、のっそりと1日を始めた。
夢の感触は、出勤の準備を進めるにつれて薄れていった――。
◆◆◆
「景山……」
――もう一度シミュレーションしてみるか。
ちょっとパラメータを振りすぎたかもしれない。
「景山」
――100?いや、95まで戻すか……
「景山!」
顔を上げると、杉崎課長がパーティション越しに俺を見ていた。
呆れたように笑っている。
「お疲れさん。お前、夕飯も食ってないだろ。もう帰れ」
「……え、でもまだデータが取れてなくて」
「いい、いい。明日やれ」
腕時計を見る。まだ19時半じゃないか。
「……まだ19時半だ、とか思ったな。定時は17時半だよ」
「そりゃそうですが……」
「大丈夫だ。データは明日でいい」
「……分かりました」
俺はちょっと考えて、うなづいた。
「杉崎さんは帰るんですか?」
「いや、俺はもうちょっとやってく」
「……ずるいじゃないですか」
「俺は課長だからな」
よく分からない理屈を言ってニヤニヤする杉崎を見ながら、俺は帰り支度をした。
「今度、またバーに行こうな」
一瞬、ゾッとする。入り込まれるような、変な感覚。
――なんだ? 杉崎さんはプライバシーを侵害するような人じゃないぞ。
「……次は色んなジンに挑戦したいです」
「任せとけ」
お疲れー、お疲れさまー、と同僚が声をかけてくる。
真島と心谷さん。なんだ、2人もまだ残ってるじゃないか。
俺は釈然としないまま職場を出た。
◆◆◆
会社近くの駅への夜道。
――未読7件。
スマホには彩奈からメッセージが来ていた。
いつの間に?
全然覚えがない。
面倒なので電話を掛けることにする。
「もしもし……」
「あー!やっと連絡ついた!」
彩奈のテンションの高い声が鼓膜に突き刺さる。
俺はスマホをちょっと耳から離した。
「ねえ!なんで返信返さないの!」
「仕事中だったんだよ……」
「休憩時間とかあるでしょ!」
――いやいや、メンヘラ彼女かよ。
「今から家行くから」
「は?いいよ、来なくて」
「ご飯は?」
「……まだだけど」
「駄目!おばさんに頼まれてるから。じゃ後で!」
子供の頃はおとなしかったのに、最近どんどんお節介になっていく。
彼女が出来たら、きっと関係を怪しまれる。
かと言って冷たくするのも違うし。
いらない心配だ、と自嘲気味に笑う。
恋人ができる気配は、もう何年もない。
◆◆◆
鍋の湯気ごしに彩奈が俺の顔を見てくる。
「……俺、なんか変か?会社でも上司に早く帰れと言われたんだが」
「うん、変」
彩奈が断言する。大きな茶色の瞳に俺が写っている。
艶やかな茶髪のボブがよく似合うこと。
――こんなに可愛いんだから、さっさと彼氏作ればいいのに。
小さい頃から慣れている俺でさえ、気づけば見つめていたりする。
一緒に街を歩くと、男ばかりか女も振り返る。あれは、さすがに気持ちがいい。
「やばいくらい顔色悪いよ。目の隈もひどい」
「そうかあ?」
疲れているのだろうか。自覚がない。
――自覚がないのが一番まずいか。
「良く寝れば大丈夫だろ」
ふと、昨晩の夢の感覚がよみがえる。
あくまでも感覚で、具体的なことは何も覚えていない。
「――昨日、夢を見てさ」
「ん?言ってみ」
彩奈がしたり顔で先をうながす。
「よく覚えてないんだけどさ、なんか侵入される恐怖っていうか。怖いんだよ」
「……それ、あたしのこと?」
――なんだ、その悲しそうな顔は。
「ちがうちがう!今更、お前に侵入されてるなんて思うわけないだろ」
「でも、深層心理では思ってるかも知れないじゃん」
「ちがうって――そうだ、呼ばれてる感じもしたんだよ。探されてる、みたいな」
「ふーん……」
彩奈の作った鍋は美味かった。彩奈は料理も得意だ。
俺はいつもより入念に礼を言った。今度、飯を奢る約束もした。
洗い物は俺が引き受け、マンション前から彩奈をタクシーに乗せた。
彩奈は何やら不満そうだったが、俺は早く寝なければいけないのだ。
明日はしっかりデータを取るんだからな。
さっとシャワーを浴びて、早々にベッドに潜り込む。
時間は23時半過ぎ。
熟睡のコツは0時前に就寝することだ。健康的だろ?
◆◆◆
――冷て。
夜中に目が覚めた。
部屋は真っ暗、まだ深夜だろう。
足元が冷たい。濡れているみたいだ。
――寝小便?まさかな。
その時、何かが動いた――ベッドの中で。
「ひ……」
変な声が出た。
でも、そのせいで少し冷静になる。
自分がいつもの部屋にいることを実感して、安心する。
ところが――
「うわあっ!」
今度こそ、本当に動いた。
ベッドの中に何かいる!
俺は足を体の方に引こうとした。
でも――
動かない!引っ張られてる!
がばりと布団をめくる。
「――っ!?」
息を呑むとはこのことだろう。
心臓も止まったかも知れない。
そこには白い服を着た、黒髪の女がいた――俺のベッドの中に!
女はずぶ濡れだ。
長い髪で顔は見えない。
蝋のように白い手が、こっちに伸びてくる。
「……****……」
女が何か言った。
日本語じゃない。
ズルリ、ズルリと女は這い上がってくる。
細い指が俺の腕に食い込む。
「……***……」
女が腕をぐいと引き、俺はベッドの中に引きずり込まれた。
「がぼッ――!?」
白い泡が暗闇を昇っていく。
水が一気に鼻腔に入ってきて、目の奥に鋭い痛みが走る。
俺は得体の知れない暗黒の中で溺れていた。