7・『 なら貴様、家族と会いたいのか? 』
【後半・ 一年の無為の果て、時は動き出す】
7・『 なら貴様、家族と会いたいのか? 』
陽が、落ちてゆく頃合いだった。
日没直前の西空は、地平線に金と朱とが混ざり合い、絡み合い、幻想のような色彩だった。そして空の全体は、急速に光を失ない始めていた。
……
王都ファウロでも、夕刻の賑わいは終わっていた。
すでに人々は、それぞれの家へ戻ってしまった。つい先程までごった返していた王城前の広場も、そこから始まる大路も、商家の並びも、裏手に回った豪族の屋敷街も、今は全てが静まっていた。
間もなく陽は、丘陵に落ちる。これと同時に、市壁の五つの城門も閉じられる。
五つの中で最も小さな西の門でも、今、番小屋から老いた門番が出て来た。のろのろした動作で丘陵の日没を見据える。だれた息を吐く。そして鋲打たれた門扉へ手をかけ、閉じていこうとする。
その時だった。
「待ってくれ」
門の外から、一頭の馬が走って来た。
「今入るから門を――待ってくれ」
最後の夕光を背に、馬は急いで駆け付けて老人の脇を抜けてゆく。丸切り逃げるように路地へ向かうが、それでも一瞬だけ横を向いて礼をした。為に顔は夕光を受け、その輪郭を浮き上がらせてしまった。
「あれは……。今のあれは……ちょっと、見た?」
城門の向かいにある大邸宅の上階だ。窓際に椅子を置いて外を見ていた女性が、胡散臭そうに言った。
「間違いないわ。今のは。あの時から初めて見たわ。本当にまだ残っていいたのね。
ほら、お前も覚えているでしょう? 今のは、ナロドニア家の家令のマキスよ」
「ナロドニア家の……」
と呟いた夫人付きの侍女が、眉と目をしかめた。不快を表した。
一年という時間が経っていた。
イルシオが栄光と共に凱旋し、その僅か一日後にナロドニア家が崩壊してから、既に一年の日々が流れていた。
この一年間をもって、ルムにおいて王家に次ぐ大権門は文字通り、人々から忘れさられた。僅かに残されていたのは下卑た嘲笑と、残酷な噂話だけになった。
曰く、
『父と娘が揃って片手を失った、父と娘が揃って正気を失った』
噂の真偽は判らない。家長のティタンも令嬢のヴィアもこの一年、一度として人目に映る事は無く、完全に姿を隠してしまった。
邸内に多数いた郎党達も使用人達も、いつの間にか離れてしまった。今はほんの数人の律儀者と外地から集めた余所者だけが、目立たないように働いているらしい。もっともこれもいい加減な噂だけで、どこまでが真相かは判らないが。
ルムの人々の誰もが例外なく、この家との関わりを完全に避けた。いまやナロドニア家は、本当に人々から忘れ去られてしまった。
「マキス。やっぱり残っていたんだわ。並外れた忠誠心で讃えられた男とは知っていたけれど。でも――。
やっぱり馬鹿な男よね。さっさと見捨てれば良いものを。お前も見た? 今の。痩せてみすぼらしくなってしまって酷かったわ」
僅か一年前。この男を自家で雇えるのならば、自分が所有する北の丘陵畑を全て手放したって惜しくない、それどころか、この男を自分の寝台に招き入れられるのなら――と真剣に悩んでいたアブサ夫人が、平然と言いのける。
「おそらくもうあの館には、あの男しかいないんじゃないかしら。あの男も、まさかこんな重たい労苦を負う命運だったなんて、夢にも思わなかったでしょうね。本当に聖者様に賭けて、馬鹿な男だこと。
――嫌ね。何だか気味悪いし、それ以上に縁起が悪いわ。嫌だわ。聖者の名にかけて、ナロドニア家の事なんて何一つ思い出したくも無いのに。もう時代は変わったのに」
その通りだった。
時代は変わっていた。ナロドニア家の事など気にもする者は居なくなった。気にすべき事ならば、他に幾らでもあったのだから。
それは例えば、
……相変わらずファウロ王城に留まり、サナタイに殺生与奪を握られているターラ
……だというのに、相変わらずターラの魅力に骨抜きにされているサナタイ
……サナタイから多くの政務を任され、丸きり宰相座に就いたか如くのエアリア
……ほとんどの昼夜を娼婦館で過ごしているとかいう双子の王子
……かつての敵国アルグートは、なぜだかまた軍備を始めているとか否とか
だから、あんな過去の事はもう誰も噂にしなかった。
一年の昔に追放され、姿を消してしまったナロドニア家の嫡子・イルシオの名前などもう誰一人、口にしなかった。
「嫌ね。なんだか不愉快。悪魔が悪運を持って忍び込んできそう。
お前、厄払いをしたいから塩と赤葡萄酒を持ってきて。今すぐ」
アプサ夫人は早々に窓辺から身を引いた。ちょうど赤く歪んだ陽の全てが、丘陵の下へ没した時刻だった。
その全く同じ、陽が没した時刻。
ファウロの北の城門では、最後の荷馬車が、抜け出て行った。その背後で鉄鋲の門扉が、軋んだ音と共に閉じられていった。
遠い西空は、朱一色に染まっている。丘陵の連なりの中に刻まれた街道も、その上を遠ざかってゆく荷馬車も、残光に染められている。
夕方の風も強まって来た。去ってゆく荷馬車は、はためく幌布と轍との音を立てながら、街道を進んでゆく。丘陵の緩い坂道を下ってゆく。
そこまでを見据える眼があった。
一人。いや。二人。
「近郊の農夫の荷馬車だな。おそらくカル村辺りの奴だろう」
「……」
「さあ門も閉まった。今日もまた何も無しだ。帰るぞ」
「……」
「早くしろよ。まだ何か起こるとでもいうのかよ。おい、帰るぞっ」
「……」
それでも相手は動かない。丘陵の頂き、小さな窪みと灌木の陰に身を伏せたまま、取り付かれた様に遠方を見据えている。
「いい加減にしろっ」
怒鳴るや、素早く相手の襟首を掴み、いきなり頬を殴った。
「俺の命令には全て従え! 自分の立場を解っているのかっ」
「――。解っている」
赤くうっ血しだした頬で、やっと顔を上げた。
ナロドニア家のイルシオだった。
確かに、ナロドニア家のイルシオだった。顔付きも体格も印象も劇的なほどに変化してしまったが、しかしイルシオだった。
全身が激しく痩せ、顔の肉が削げ、ほお骨の高さばかりが浮き上がり、そして何よりも、眼こそが違った。ほんの一年前まで存分に備えていた肯定や正義や信念や理想や、その様な光の全てを失っていた。
もっとも、それも当然だろう。あの日から大きく変わったとしても。
あの日。あの白い朝。
ずっと霧が続いていた気がする。
濃い霧の中を歩き続けていたような記憶だけが、漠然と残っている。
マキスによって郊外の荘館に押し込められ、何も考えなかった。ただそこから抜け出したかった。何もせずにいる事に耐えられなかった。憑りつかれた様、何かをせずにはいられなかった。
何を?
(キジを獲って来て、イルシオ!)
何度となく、意識の底で響き続ける。その都度ぞくりとした悪寒が走り、こらえ切れない震えを覚える。それが痛烈な復讐への欲求だと自覚するまでの数日間を、霧の中で歩き続けた気がする。
歩いた。どこへ?
ファウロに帰りたかった。猛烈に。
ヴィアの側にいて、護ってやりたかった。何度も足がファウロへと向きかけ、それを苦痛とともに堪えた。自分が戻れば、より一層ナロドニア家が追い詰められる、――ヴィアと父上が追い詰められると解っていたから。それに、
(私も、ナロドニア家の血族です。私の手首を落として下さい)
ぞくりとした苛立ちが走る。肉体を切り、生涯を捧げてまでナロドニア家に忠節を見せるマキスに感謝と、それ以上の嫌悪を覚える。なぜ? なぜ嫌悪する?“叔父”が捧げる絶対無比の滅私なのに? だからなのか?
どこに行けば良い?
月が極限まで痩せ細るまでの間、イルシオは彷徨い続けた。そして次の満月を迎えた夕刻、彼は意を決した。足を北へ向けた。
それからの一月余りをどう過ごしたか?
よく覚えていない。覚えているのは恐怖の感触と、死の予感だった。湿った土の臭いだった。
「それとも何か御大層な用件を隠しているってことか?」
「……。いや」
「糞が。陽が落ちるとたちどころに風が強くなって寒くなる。ぐずぐずするな、さっさと馬に乗れ。市門が閉じた以上もう用は無い。
毎日毎日こんなところに這いつくばってるばかりだ。何が起きる訳でもないのに退屈でしょうがない」
「だったら私に構わず、好きな所に行けばいい」
そう言った直後、全く慣れ切った態でその男は――ナシードは二度目、イルシオの顔を打った。元来がきつい造りの目に、さらに苛立ちの限りを込めて見据えてきた。
「解っているとさっき言ったな、貴様。なら解ってるはずだ。命令を出すのは俺だ。貴様はただ従え。それが嫌なら殺してやる」
「……」
「俺は貴様など全く信用していない。今はただ、少しは何かしらの役に立ちそうだから生かしておいてるだけだ。
なにが“敵方の監視と情報収集”だ。王城の連中を上手く言いくるめやがって。こんな吹きさらしの丘で寝転がっているだけで何を監視しようとしているんだよ」
アルグート国のナシードだ。
自分より幾らか年上の、鋭利な目付きと機敏な反応を持つこの男は、捕囚の全てを服従させなければ満足しないようだった。殺気だった強圧感が全身から発せられていた。
「何を狙ってる? 何を考えているんだよ、貴様」
鋭い威圧の顔は、あの時も同じことを言った。
「何を考えているんだよ、ルムのナロドニア家のイルシオ」
切り付けてくる刃物のような目付きだ、と、その目に射貫かれながら思ったことを、なぜか覚えていた。
満月から三日目。ルム王国の領を北に出てアルグートの領地に入った途端、アルグートの守備兵達に見つかった。あっという間に取り囲まれ、針のように先鋭な剣を胸元に突きつけられた。
「何が狙いだ? 何をしにここに来た? 勝軍の指揮官殿が御自ら」
剣の手入れが見事だなと、こんな時なのにぼんやり感じたことを、不思議と覚えていた。
「なんだか薄汚くなったな。つい先日の勝ち誇っていた時から随分変わったじゃないか。何だ貴様、怯えているのか?」
胸を、剣先が圧迫する。これが自分を貫けば、この現実から自分は消えるのか?
そうなれ。そうなってしまえ。いや。
駄目だ。死ねない。ヴィアに会いたい。
「――。今、アルグートの王城では、不在の女王に代わって誰が統治をしているんだ?」
「黙れ、訊いているのは俺だ! 言え、こんな所を独りでうろついている目的は何だっ」
死にたくない、嫌だ。ヴィアに会いたい。ヴィアの為に復讐したい。
「ルム国王のサナタイを滅ぼしたい」
「……何だって?」
「サナタイと双子に復讐したい」
駄目なら葬れ。今、葬ってくれ。
「サナタイと双子を私の手で、殺したい。それだけだ」
その続きは、土の臭いだった。
イルシオは湿った土の臭いのする牢に閉じ込められた。毎日男達がやってきては質問責めをし、ひたすらに喋らさせられた。拷問の恐怖も示されたが、その必要すら無かった。イルシオは全ての質問に答えた。知り得る限りのルムの実情について全てを喋り尽くした。だがイルシオの方は、何一つ教えてもらえなかった。
土臭い薄暗い場所で、日々が過ぎてゆく。イルシオの顔に疲労と焦燥と恐怖が刻まれてゆく。
「明日には処刑かもな。この国では処刑は、夜が明けたらすぐだぜ」
悪趣味な脅しと、無言で耐える。自分が生きたいのか死にたいのか判らないのに、それでも恐怖は感じ、恐怖に全身を締め上げられる。ナシードや他の兵士達・獄吏達は、何度も何度も繰り返して苛む。
「貴様はアルグートがもっとも憎む仇だぜ。ルム王への復讐どころか、貴様はこの牢から一歩も出られずに終わりさ。さあ、くたばれ」
ただの脅しだ。ただ脅して愉しんでいるだけだ。
そう自分の言い聞かせ、言い聞かせて、這い上がって来る恐怖を押し殺して、言い聞かせて、信じて、思わず叫び出しそうになって、泣きだしかけて、自棄となって、でもやはり生きたい、生きてヴィアに会いたいと願って、耐えて、泣いて、信じて……。そうして。
イルシオは生き長らえた。
四度にわたって月が満ち、欠けた後、イルシオは牢から出された。そして初めて、ようやくアルグート側から教えられたのは、
……今、アルグートの王座は空位で、豪族達が合議で執政している事
……先の敗戦を屈辱とする豪族達が、ルムとの再度の交戦を訴え出している事
……豪族達はずっとターラ女王の即位に対して激しい不満があった事、王国を混乱させ続けている女王には、今も凄まじい憎悪がある事
等々。予想とは異なった現実だった。
――神よ。違う、悪魔よ。ならば。
「ならば、私は貴方達と手を組みたい。貴方達のルム攻撃に、協力したい」
そう言った。その瞬間、売国奴になった。
「私を好きにしろ。殺したければ殺せ。サナタイに思い知らせ、ヴィアの足元に土下座させれば、その場で殺されてたって構わない」
そう言った。泣き出したく、同時に笑いたかった。
その後はもう感情の全てを失った気がした。もうどうにでもなれとしか思わなかった。もうどうにでもなれと。そうとしか。
いきなり上体が上に引っ張られる。
はっと現実に戻された。目の前では、それでなくてもきつい顔付きのナシードが、苛立ちで眉をが引き上げていた。襟元を締め上げられる腕に、一層の力が込められた。
「望むなら一晩中その辺の泥だまりに沈めといてやるぜ」
「……。手を放せ。自分で立ち上がる」
「それとも、俺の言う事は全て、従いたく無いって訳か?」
真顔で睨んでいる。これはまた殴られるな。
「陽は沈んだ。すぐに暗くなる。だから監視は出来ない。どうにもならない。風も出て来たし、このまま残っていても体を冷やすだけだ。糞が。
殴ってやろうか? 無駄なことばかりしやがって」
好きにしろ。殴りたければ、殴れ。
「糞のように下らない意地で、無駄に殴られるだけの馬鹿が。くたばれ。地獄落ち野郎。
まあそれでも、貴様の糞垂れな気持ちも分からないではないがな」
「――」
「何もせずにはいられないんだろう?」
苛立った口調のまま、しかし真顔で語りかけてきたのだ。
イルシオはゆっくりと顔を上げた。相手を見た。
変わった男だ、と思った。強まってゆく風に、相手の黒い髪が流れていた。そのどうでも良い事に、睨みつけてくる黒い眼に、僅かな感情の変化を覚えた。
ナシード。アルグート国に踏み入った瞬間から、ずっと関わる事になった男。見た目の通りの、気の荒い男。手の早い、自分を殴る役割の男。
そのくせ、ほんの時折、妙にこちらの内面を見抜いてくる。奇妙にも。全く意表を突いた時に。
イルシオは立ち上がった。たっぷりと湿気を吸った服から、泥を払った。
馬の許まで戻ると、鞍にかけておいた灰色の上衣を纏う。音を立てずに跨る。また無為な一日が終わると、心の隅が淡々と思う。
日没後の世界は、朱から薄藍へと変わっていた。風は一層に強まり、冷たさが増していた。
「おい。イルシオ。待てよ」
応えない。光を失っていく丘陵のどこにも眼を置かない。冷えた風に上衣の端を吹き上げられながら、北に離れた場に設えた簡素な天幕へと向かってゆく。
「こっちを見ろよ。イルシオ。聞け。それとも無理やり馬を止めてやろうか」
「……。何を」
「聞け。もう半月が過ぎた。ここに這いつくばってからだ。だが何も起こらない。
一体貴様は何を待っているんだ?」
「――。何の事だ」
「もういい加減に真実を言ってもいい頃だろう? 言えよ、糞野郎。
ルムとの戦役に備える為に、ファウロの市門の監視をすべきだと言いだしたのは貴様だ。しかも自分がやると散々に強引に願い出てだ。俺は当然、貴様が街の誰かと連絡する機を狙っているんだと思った。だが、何も起こさない。貴様は逃げ出そうとすらしない」
「逃げるはず無いだろう?」
「なら貴様、家族と会いたいのか?」
ぴたりと、イルシオの身が強張った。
本当に、奇妙な男だ。本当に突然、真っ向から真意を突いてくる。粗野で、粗暴で、激昂するだけの男なのに、なのに思いもかけない時に、思いもかけずに繊細な感情を突いてくる。吹き抜ける風に外套と長い髪を吹き上げられながら、気強い、真剣な顔で自分を見てくる。
「貴様、知りたいか? 隠していたが教えてやる。
ファウロの街のナロドニア邸だが、今は完全に人の出入りが途絶えたらしい。たった一人、背の高い男が出入りしてる姿だけが、時折に見かけられてるらしい」
「……」
“代わりに私の手を落として下さい”
「その男に、手首はあったか?」
「何――? 風で聞こえないぞ、イルシオ。大声で言え。その男は誰なんだ? 一族には貴様と当主以外に男はいなかったな。なら律儀に残った郎党の一人か? 心当たりはあるのか?」
“代わりに私の手を。私にも一族の血が……”
「おい、知りたいくせに何だよ。貴様、会いたいんじゃないのか? もし、本当に会いたいって言うのなら、少しだけだったら話をさせてやってもいいぞ。ただし俺の監視付だがな」
「――。いや」
「何だよ。せっかく教えてやったっていうのに感謝知らずの糞垂れが。意地でも張ってんのかよっ。今さら意地を張る意味があるのか?」
「――」
「無言かよっ、阿呆が! 好きにしろ。俺の知った事じゃないっ、糞が!」
吐き捨てるように怒鳴った。また機嫌を損ねたか? 殴られるか? しかしナシードはさっさと風の吹き上げる急斜面を下ってしまった。
空の薄藍色は、濃藍色へ。夕刻は夜へ動いてゆく。丘陵を下り、登り、進む。真正面からの風の中、また前方には丘陵が現れる。
その頃、イルシオはやっと気付いた。
「なぜだ?」
機嫌の悪そうな後ろ背に、大声で尋ねた。
「私を家の者に会わせてくれるなんて、なぜだ? 私は仇の敵将で、今は捕囚で、全く信用出来ないんじゃなかったのか? そのまま逃げ出すかも知れないのに、なぜだ?」
「逃げる気があるなら、とっくにやってるだろう? だが貴様はやらない」
「つまり。私を信用してくれるのか?」
と訊ねた時、荒っぽい顔が振り向いた。図星を見抜かれ怒るように恥ずかしがって歪んだのを、イルシオは見逃さなかった。
「余計な口を効くなっ」
本当に、奇妙な男だ。不思議だ。まさかね。
まさかこの男が、僅かとはいえ自分を気遣っていると気づかされるとはね。僅かとはいえ、自分がこの男に親しみを覚えるとはね。
ほんの少しだけ自分の口許は上がり、笑んだ。あの日以来一年ぶりの笑みだったとは、自分でも気が付かなかった。
空はついに闇を帯び出す。夜の女王の時間が始まる。
風音が強い。二頭の馬は並びながら灌木の丘を進んで行く。イルシオは無言だ。ナシードももう二度と口を効かない。西空に月と明星が並び、どちらもが金色に冴えている。
三つ目の斜面を登る。この頂を越えれば、貧相な雑木林がある。そこに古びた天幕がある。そこに戻り、簡単に何かを食べ、ぼろ布にくるまって寝る。この半月の間、繰り返してきた通りに。
強い風が一面の灌木を吹き流す。風の音ばかりが響き続ける中。その時。
――二人は同時に気付いた。
がたがたという轍の音と、風を受ける幌布の音が、風の向こうに聞こえてきたのだ。
「荷車?」
丘陵の狭間の道を、一台の荷馬車が進んでいた。
「何だよ。さっき北門を出ていった荷馬車じゃないか。馬鹿が。何で街道を使わないんだよ。こんな時間に丘陵の真ん中を荷馬車で突っ切る気か? 神の恵みを受けた阿呆か?」
「……確かに」
「悪魔に気に入られた馬鹿って事か?」
「確かに、変だ」
「――。貴様もそう思うか、イルシオ。確かに、変だ」
荷馬車は闇に落ちた悪路を、強引に進んでいる。吹き付ける風は強く、酷くなり、灌木が金切声を上げ始める。
荷馬車もまた強い風を受ける。荷台を覆う暗色の幌布も激しくはためく。吹き抜けた強風に一瞬大きな音を立て、舞い上がりかけ――、
(あ!)
イルシオは息を飲んだ。
(こんな偶然っ、神が! 違う!)
神なんていない、いないのに、こんな偶然があるなんて!
大きく幌布が舞い、見透しとなった荷台にエアリアがいたのだ。