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6・『 神なんて信じるな! 』

6・『 神なんて信じるな! 』


 夕刻から、酷い雨となった。

 二日間にわたる予定だったルム王主催の狩りも、大雨に追われて――違う、ナロドニア家の起こした大事によって、中止となった。王も豪族達も引きつった顔のまま、急ぎファウロへの帰路についた。

金色のキジは樫の木の小枝に吊るされたまま忘れられ、激しくなってゆく雨粒に打たれ続けていた。

 ……

 夜が進んでゆく。

 雨がいよいよ酷くなってゆく。

 雨は、王都ファウロに激しく降りつけてゆく。大きな雨粒が地面を叩き、強い雨音が響いている。雨水は入り組んだ路地の全てで、速い勢いで流れてゆく。

 その小路の角の一つで、イルシオは背中を路地の壁に押し付けていた。強張った眼が、息を殺して闇の中の雨を見据えていた。

 体は全く動かない。打ち付ける雨は髪を、顎を、服の袖を伝わって、下へ下へと流れていく。

 下へ。指先へ。曲げられた五本の指の中に固く握りしめられた短剣の切っ先へ、冷えた雨は伝わってゆく。

(考えなければ。やるべき事を)

 雨に全身を打たれながら、自問する。思考と感情を押し流そうとする雨に抗い、今やるべき事を夢中で考える。

(やるべき事? 決まってるじゃないか)

“キジを獲ってきて、イルシオ!”

 ヴィアを取り戻すんだ。

 体を穢され、正気も失った。心身ともに激しく傷つけられたまま兵達に連行されていった姿が、自分が見留めた最後となった。

(ヴィアを、取り戻すんだ)

 記憶違いでなければ、重罪人は王城で枷をはめられた後、一夜を置かずに市外の獄塔へ移送されるはずだ。必ずこの道を通って外に向かうはずだ。この雨だ、幾らかの幸運があれば、衛兵の手から妹を奪う事が出来るはずだ。

(では、奪い取った後はどうする?)

 脳裏に鮮明に、失神した父の姿が浮かぶ。常の冷静さも崩れ、顔色を失ってしまったマキスの姿も。

 もし自分がヴィアを奪って逃げたら、その後はどうなるんだ? その咎は父が負わされるのか? その後のナロドニア家はどうなるんだ、神様? ――いや、

(神なんて信じるなっ、こんな一日をヴィアに与えた神なんて信じるな!)

 雨足はさらに強くなる。朝には煌めくように豪華だった白の胴着を通り抜け、皮膚に至って濡らしてゆく。体温を奪ってゆく。

 ただじっと、闇の雨の前方を見据える。耳はもう、雨音以外の何も受け入れない。

(ヴィア――)

 思考が出来ない。感情に押し潰されそうになる。耳に雨音が痛い。

(ヴィア――ヴィアを……)

 激しい雨音。闇に銀色の雨。

 疲労。寒さ。空腹。神経が焼き切れそうな緊張感と嘔吐感。

(ヴィアを――!)

 はっと気づく。

 視界の右隅に光が走った。夢中で振り向くが、間に合わない!

 強い衝撃で背中を壁に叩き付けられる。一瞬つぶってしまった目の奥に、凄まじい憎悪の対象が浮かんだ。

“あの双子、ヴィアの全てを奪ったあの悪魔の双子!”

「イルシオっ」

 違う。アラバスターのランタン光の中に見えたのは、殺すべき顔では無かった。整った、自分にとってこの上ない親しみを覚える顔だった。その顔が驚いた表情で叫んだ。

「イルシオっ、ここで何をっ」

 首を押さえつけた手を離し、外套のフードを背中に落とすや、マキスは続ける。

「貴方は王から追放令を受けた身じゃないかっ、誰かに見つかったらどうなると思っているんですか!」

「お前こそ何をして――」

と言いかけ、イルシオの目は捕える。

 相手の肩越しの背後に、数人の人影が雨に打たれている。揺れる下向きのランタン光の中、それが自家の郎党達だと判る。雨除けの外套の裾からは、長剣の切っ先が覗いている。数頭の馬も準備されている。その目的は、一目瞭然だった。

「お互い同じことを考えたのか。良かった、ヴィアを救い出すには少しでも人数が多い方――」

「駄目ですっ。それは私達がやる。貴方はすぐに領外へ出て下さい」

「嫌だっ、私の手で救う! いいか、この件での責任は全て私が負う。だからこの場も私に任せろっ」

「早く出て下さいっ。追放者が領内で姿を見られたら、その場で切り殺されても文句は言えない。即座に街から出て下さいっ、――出ろ、早く!」

 その語気と眼だけで理解出来る。マキスはこれから仕出かす件について、自らが全ての責を負う気だ。

「お前一人の咎にはさせないぞ、マキスっ」

「早く! さっさと出ていけ!」

「そんな事させない、ヴィアは私が助ける! 私の妹だ、ナロドニアの一族だ、お前こそ無関係だ、マキス、今すぐ私――」

 突然イルシオの言葉は止まる。両者は同時に雨の中を振り向く。

(来た!)

 鈍色の雨の向こう側に、今度こそ小さな一つの光が現れていた。

 イルシオとマキスは無言で視線を交わす。マキスの指示で郎党達は全員闇に潜み、二人もまた、僅かな路地の中に身を隠す。

 マキスは外套の下から長剣を引き抜く。イルシオもまた強張った指の中で短剣を握り直す。

 光は近づき、雨越しに相手の輪郭が浮かび上がり出す。こちらには気づかず、ゆっくりと近づいて来る。あと二十歩で来る。あと十歩……。五歩……。三歩……。

 目の前を、横切った。その男が、振り向いた。

「ナロドニア家の、イルシオ殿?」

 ごく間近に、三者は呆れたように顔を突き合わせる羽目となった。

「アルグートの、エアリア……」

 強い雨音の中、エアリアはまずは丁寧に頭を垂れた。

「この様な場でお会いするとは思いませんでした、イルシオ殿。貴方様は追放令を受けたはずです。早く去られた方が良い。もうすぐサナタイ王の兵がここを通ります」

「エアリア、私は……」

と言いかけて、口ごもってしまった。

“この男には、何か言うべき事がある気がする”

 今日一日、熱を帯びんばかりに敏感になったイルシオの感覚が、必死に何かを訴えようとする。しかしそれを掴めない。ナロドニア家の為に真摯に、誠実に口添えをしてくれた相手に今、何を言って良いのか、どうしても言葉が見つからない。

「先刻の当家への助命の件につきまして、心より感謝を述べさせて頂きます。しかし御礼については後日にあらためまして」

 代わりマキスが的確な早口で伝える。

「エアリア殿。貴方は今ここで何をなさっているのですか?」

「正に貴邸をお訪ねするところでした」

「なぜ?」

「ターラ女王陛下が、ナロドニア家の令嬢に大変な御同情を示されていらっしゃいます。このままでは余りに不憫と、何とか減刑の措置は執れないものかと、御思案をされていらっしゃいます」

「――え?」

 瞬間、イルシオの背筋に気違いじみた希望が走った。思わず目が見開かれたが、しかし。

「そんなはずは……。ヴィアが女王の赤子を殺したと――勿論それは濡れ衣だが、でも、ヴィアが自分の赤子を殺した事に、そういう事になっているのに……」

「我等が女王陛下は、それ程に慈悲の御心に深い御方なのです」

そんなはずは無い!

 思考は余りにも真っ当な判ずる。しかし一方で、この残酷な状況から逃れたいという希望が、必死で首をもたげて来る。

「本当に、女王はヴィアの助命をして下さるのか?」

「はい。既に先程、サナタイ王陛下に嘆願をなさり、その許可を頂かれました」

 神よ……、

 警戒心が音を立てて崩れてゆく。その最後の一角が、それでも懸命に訴える。“そんな事は、有り得ない!”

 またもマキスが明確に代弁する。

「女王陛下の尊い御慈悲には、感謝の言葉も有りません。しかしながら、エアリア殿。この様な御配慮はおよそにわかには信じ難く思えます。これ程に破格の恩赦を賜り、ナロドニア家は如何様に女王陛下とサナタイ陛下に対応すればよろしいのでしょうか?」

「それをお伝えする為に、私は御家へと向かうところでした。実は、サナタイ王陛下はヴィア姫の釈放に関して一つだけ条件をお付けになりまして。それが――」

 雨の中、エアリアの声が低くなった。

「――。ナロドニア家の御一族のどなたかが、女王陛下への謝意及び今回の騒動の責任として、即座に片腕の手首を切り落として、献上しろとの条件です」

 二つ分だけ、呼吸が止まった。

 激しい雨を透かして見える。二つの顔が、自分を凝視している。

 感情を滞らせて固まってしまったマキスの顔と、

 いかにも御同情申し上げるというエアリアの顔。 

「……。私に、手首を切り落とせと……?」

「ナロドニア御一族のどなたかと。残念ながら今、ファウロに御在住の一族の方は、貴方様と御当主の御二人のみと聞き及びました」

「……」

「お気の毒です」

 本当に気の毒だ、と告げる眼でエアリアが見ている。

「御決断をなさるのならば、一刻でも早い方が。国王陛下につきましては、いまだに激しく御不興です。恩赦の御心持ちを変えられない内に、素早く事態を進められた方が」

「……」

「本当に、お気の毒です。イルシオ殿」

 雨音がうるさい。

 必死に感情を押し潰す。代わり、考えろと自らに命ずる。

 考えろ。現実のみを。あの誇りを穢されて倒れた不運な父親を、これ以上傷つける訳にはいかない。それは判っている。充分に判っている。だから。

“私にキジを、イルシオ”

 背筋に恐怖が這い上がって来るのが分かる。苦痛に対する原初的な恐怖を止めることは出来ない。それでも、

 自分が手首を切れば、ヴィアは助かる。

“キジよっ、イルシオ!”

「分かった。すぐに私の手首を切る」

 一瞬だけエアリアの顔が笑んだように見えたのは、風にランタンが揺れたせいだろうか。

 水滴に塗れた短剣をしまう。僅かに震えようとする左腕を、イルシオは無言で前へ差し出した。その時だった。

「私の手首を落として下さい。私もナロドニアの血族です」

 虚を突かれ、振り向いた。

 ――マキスは恐ろしく固い、無機質な顔だった。

「家令を務めていますが、私の体にもナロドニアの血が流れています。私の手首を落として下さい」

「何を。マキス……。何を言っているんだっ」

「私は、当主のティタン殿にとっては、父親違いの弟という血縁に有ります。家名への恥となる出生でしたので、公より隠されていました。イルシオも知りません。私と当主だけが知る事実です」

「マキス! だからっ」

 こんな時にいきなり何を言い出すんだっ。

 イルシオは混乱する。いや、感情は混乱に留まらない。なぜか怒りが加わる。こんな時に白々しい嘘まで持ち出して忠節を貫こうとする家令の態に感情は屈折し、怒りを覚えてしまう。

「いきなり出まかせは止めろ――っ。こんな時に全く分からない!」

 しかし相手は自分を見ること無く続けてしまう。

「四半世紀ほど前。若きティタン殿が家長に就かれて間もない頃です。

寡婦であられたティタン殿の御生母が、極めて外聞に恥ずかしい事態に――、誰とも素性の知れぬ男との間に私を孕まれてしまいました」

「マキス、止めろっ」

「勿論、家名を重んじるティタン殿は激しい不快を示され、即座に御母上を遠地の城館へと移されてしまいました。

 私も本来であれば、誕生と共に抹殺されるのが命運でした。しかしながらティタン殿は『もしこの赤子が、ナロドニア家の為に絶対の奉公をするのであれば』という思惑の許に私の生命を残す事にされて――」

「止めろと言った! 命じた! それ以上の作り話は許さないぞっ、黙れ!」

 怒りに駆られるのに雨越し、相手の唇が僅かに震えているのを見つけてしまう。これが嘘ではなく真実なのだと直感出来てしまう。

「私は、ティタン殿によって生命を保つことが出来ました。この話を殿より聞かされた時から、私はナロドニア家の為に命を捨てる覚悟は出来ています。たかが手首一つ程度で済むのであれば、それは私にとっておよそ軽微な代償です。名誉です。ヴィア嬢のために、そして――」

「私の命に背くのか! 許さない! 黙れ! 止めろ!」

「そして殿の為に、心の底よりの名誉を誇りながら、手首を落とします」

 言い切った。

 目の前では、子供の時から見慣れたはずの家令の姿が変わっている。知性と温厚と謙虚の姿が、裸に剝がれている。

 真実を隠してきたこの男の長い時間。ずっと正統の血筋という陽の当たる場所に立つ自分を見続けた日々。この男は何を感じて来たのだろう。

(自分の“叔父”)

 ならば。自分の方は、どう対応すれば良いんだ? 今、こんな時に、この叔父に対してどの様に?

 戸惑い、強く屈折する。整然と自己犠牲を述べるマキスに向かい、体の底から嫌悪感が這い上がる。怒りに囚われる。

「止めろ! いい加減に止めろ! そんなに己の忠義を見せつけたいのかっ、そんなに私とナロドニア家に恩を着せたいのかっ、偽善者が!」

 その瞬間に相手の眼に痛みが走ったのを見てしまった。

 己の辛辣に驚き、先を継げない。雨の中、マキスが小さな呻きめいた吐息を漏らした。雨音が耳を打ち付けた。

「御一族の事情は、複雑のようですね」

 エアリアの言葉が同情なのか皮肉なのか、良く解らない。とにかくイルシオは動こうとした。素早く発した。

「エアリア。私の手首を差し出す。いいな」

「私に異存は有りません」

「いいな、マキス。絶対に逆らうな」

「――。分かりました」

 静かに家令は同意する。混乱顔のままの“甥子”に向かい、こんな時なのに的確に指示を出す。

「時間が惜しい。イルシオ。今すぐ私が極力苦痛無く、一回で貴方の手首を切ります。

 ――誰か早く長剣をっ。一番重い物だ、ここへ持って来い」

 郎党の一人が差し出した剣を受け取り、重さを確認する。濡れた右の掌の中でしっかりと握り、それから振り向いた。

「いいですね」

「……。ああ」

「腕を出して」

 無言で刺繍取りのある左の袖をたくし上げる。剥き出しにされた手首を即座に雨が濡らし、不意の冷たさが全身に広がる。何かを言おうとしたが、もう言葉が喉を通らない。物を考えられない。

「力を入れて。腕を支えていて下さい」

 答えられない。ただ頷く。雨の中、僅かなランタンの光の中で、巨大な剣が水滴を受けている。

「目を閉じて」

 閉じた途端、猛烈な雨音が押し寄せてきた。激痛を予想し、凄まじい恐怖が体の全てを縛った。

(誰か――)

 目を開け、もう一度頼めばマキスは必ず苦痛を代わってくれるとの思いが走り、それを全身の力を振り絞って止める。膝が冷え、力が抜けそうになるのを必死で堪える。

(誰か――嫌だ、誰か――)

 マキスが剣を握り直す微かな音を聞こえる。

“私にキジを獲って来て、お願いよ、イルシオっ”

(ヴィア!)

 一瞬の苦痛が、イルシオの身体を走った。

 ――

「馬を一頭、早く!」

 マキスは素早く叫んだ。

 遠巻いていた郎党達が慌てて動き、言われた通りにずぶ濡れの馬を引き出してくる。

 命ずる間も惜しいとばかりに自ら動き、首の裏を強打されて気絶しているイルシオを、地から抱き上げる。取り敢えず急ぎ後ろ手に縛り上げると、馬の鞍の前に強引に載せる。年若の郎党を呼びつける。

「お前、すぐにイルシオを西の市門から運び出せ。大丈夫だ、あそこの門番は小銭を渡せばいつでも門を開けて通してくれる、いいなっ」

「はい――」

「街道を走って、ラーズロの荘館へ行け。そこにイルシオを隠せ。いいか、たとえ途中で目を覚ましてどんなに喚いて暴れても絶対に逃がさずに閉じ込めろ。何が有っても外に出すな、分かったな。――行け!」

 まごつきながらも、それでも若い郎党は従う。急いで馬に跨ると手綱を握る。一瞬だけ気持ち悪い物でも見るように自家の嫡子に目を落とす。

「早く行けっ」

 馬は即座に走り出した。雨の中へ消えていった。

 そしてマキスは振り返り、エアリアに向かい合った。

「彼を騙したのですね、家令殿。これも貴方の忠勤の一つですか?」

「私の手を差し出します。早く落として下さい」

「本当に、よいのですか?」

 凄まじい皮肉の台詞は、優雅な口調をもってゆっくりと発せられたのだ。

「本当に貴方は、ナロドニア家の血族なのですか?

 かつて御当主が貴方に語ったのは、貴方に絶対の恩義を負わせて従わせる為の、周到な出鱈目という事は有り得ないのですか?」

 雨の中。薄闇の中。

 マキスの顔色が変わった。

 離れて立つ郎党達は初めて、自家の家令が本気で動揺している姿を見る事になった。生来の落ち着きは完全に崩れ、右手が感情を抑えきれずに小刻みに震えているのが分かった。もしかしたら、信じられないことにこの後、感情任せに相手を殴るのでは……。

 しかしその決定的な瞬間は訪れなかった。

(王城の兵だ!)

 前方に複数の灯が現れている。瞬間的にマキスは察知する。

(神よ、しまった!)

 急ぎ路地に逃げ込もうとするが、間に合わない。向こうはとっくにこちらの灯に気づいている。

「剣を抜けっ、王城の兵は五~六人だ。いいか、決して殺すな。だが一人も逃がすな、いいなっ、行くぞ!」

 指示と同時、ナロドニアの郎党四人が水を跳ね上げ飛び出した。最後にマキスも動く。静かに傍観しようとしていたエアリアの右腕をいきなり掴み、背中側で逆手に取った。

「動かないで下さい」

 その首筋に、短剣を当てて言った。

 今この男を人質にとる程に卑怯な行為も無いだろう。だが躊躇は無い。今夜、自分は何としても勝たなければならないのだから。ナロドニア家を守らなければならないから。意ならとっくに決しているのら。なのに――。

 一体、今日何度目だ?

 またもマキスの見通しは狂わされた。

「見えますか? あそこ」

 人質が優雅に告げる。言われるまでも無い。彼もまた見ている。

 雨の向こう、飛び出した郎党達と王城の兵達との間に、乱闘は起こっていない。代わり、両者は何やらを話し合い、その果てに剣を下に向けたまま、郎党達と王城の兵達は、共にこちらへ戻って来たのだ。

 そして見据えるマキスの眼が、

「ヴィア!」

捕らえた。ヴィアが、両脇を兵士達に引きずられて連行されて来た。ふらつくように歩いてきたのだ。

「ヴィアっ、大丈夫なのか?」

 答えない。こちらを見る事も無い。ただ、だらりと疲弊し切った体を引きずられるだけだ。粗末な雨よけの外套の下、朝にはあれ程に純白だった衣装はすでに、血と泥で無残と汚れている。本当に酷い。服に付いた血の、特にその左の袖口の血ときたら――、

 愕然と、マキスの眼が見開かれた。今夜二度目、彼は全身を突き抜けるような激怒を剥き出した。

「何て事を! なぜっ、誰が――!」

 マキスが大股で踏み出し衛兵の一人の首を締め上げようとするのを、ナロドニアの郎党達が飛び出して引き止める。

「マキス殿、落ち着いて下さい!」

「彼等の話を聞いて下さいっ。取り敢えずは姫を邸へ――。もう釈放されたそうです」

「とにかく姫は釈放されたそうです、救われたのですから、マキス殿っ」

「“救われた”だと? 手首を切られたというのにか!」

 体を力づくで引っ張られたはずみに大きくよろけ、ヴィアにぶつかった。

「ヴィアっ」

 それすら気付かないのか、ヴィアは崩れて水たまりに座り込んだ。そのまま、振り向きもせず雨の地面を見ていた。

「サナタイ国王陛下は、ナロドニア家の一員が即座に手首を落としてアルグート女王陛下に献上すれば、この罪人に対して恩赦を賜ると仰られた」

 囚人護送の隊長と思しき男が雨の中、如何にも事務的に報告を始めた。

「王城で手が献上されるのを待たれていたものを、いくら待ち続けても一向に届けられず、『ナロドニア家の面々は身内の者に対して薄情極まりなし』と王も女王も落胆そして軽蔑をなされた。

 但し罪人の処罰に関しては、アルグートの女王陛下が『家族からまで見放されるとは余りに不憫』と御同情をなされて、体毀刑として手首を落とした上での釈放に至った」

「……」

「国王陛下およびアルグート女王陛下の御寛大に謝意を示すように」

 それで、終わった。

 降り続ける強い雨の中、衛兵達は早々に去って行く。そして、ナロドニア家の者とエアリアだけが、雨の中に残された。

「申し訳有りません。マキス殿。私が遅々としていたばかりに……」

 雨音が、呆然とマキスの耳に響く。

「サナタイ王陛下がこんなにも事を急いていらしたとは、思いもよりませんでした。私がもっと早々に御家への伝達を果たしていればと痛恨致します。姫君が味あわれた苦痛を思うと……心が引き裂かれます」

「――」

「このような顛末になりました以上、今後も少しでも私の力が御家への助けとなりましたならと願うばかりです。私の出来る事がありましたなら、是非とも仰って下さい」

「――」

 マキスは最後まで、一言も発しなかった。

 憐みを込めながら一礼を垂れ、雨と闇の向こうに去ってゆくエアリアを、もう見ようとしない。喋らない。彼が考えているのは、ただ一つの考えだった。

(仕組まれている)

 真昼の陽射しを受けてのイルシオの凱旋。

 薄暗い森の奥での凄惨な殺人。

 その場で追放刑を下されたイルシオ。

 激しい雨の夜に手首を失ったヴィア。

 ただ重なったのではない。誰かが、ナロドニア家の崩壊を狙っている。誰かが、仕組んでいる。マキスはそう理解した。

 体に、雨の冷ややかな感触が浸みこんでいった。


           ・           ・           ・


『……という訳で、私以外にもサナタイ国王陛下は別途に使者を送り出されていらっしゃいました。

そちらの使者が私より先にナロドニア邸へと到着し、御在宅のティタン・ナロドニア殿に“手首の献上”の件をお伝えしたところ、ティタン殿は雄々しく即座に承諾をなされ、御自ら手首を落としてしまわれました。

 神の何たる試練を被創造物にお与えになることか。

 もしくは運命の女神の悪意に満ちたるものか。

 神の御名の許、この様な不幸の連鎖が、ルムにおける栄誉名高きナロドニア御家の上に降りかかることがあろうとは。……』

 ――

 ナロドニア家の家令マキスの許にエアリアからの書簡が届けられたのは、もはや夜が明ける頃合いだった。

 その時、すでにティタン・ナロドニアの左の手首から先は、失われていた。昨夜の大雨の中、外出中の出来事だった。

“誰かに、仕組まれている。ナロドニア家の崩壊が”

 ただの崩壊では満足しない。散々にいたぶって、いたぶり上げた末での皮肉で滑稽で残忍な崩壊を、誰かが望んでいる。静かに高笑っている。

 書簡から顔を上げ、呼吸二つの間目を閉じた。

 肉体もそして精神も限界まで疲れ果てているはずだが、自覚出来ない。やらなければならない。現実と対峙して、自分がナロドニア家の崩壊を留めなければならない。

窓の外を見た。

 雨はようやく止み、代わりに、たっぷりと湿気を含んだ乳色の霧が、世界を覆い始めていた。霧の深い夜明けが始まっていた。


            ・          ・         ・


 深まってゆく霧を、もう一人もまた見ていた。

 王都ファウロを離れた、小さな荘館だった。トビ色の眼は呼吸三回の間、窓の外の乳色の霧に覆われた世界を見つめた。無言のままだった。

「マキス殿がすぐに早馬で連絡を送ってくれるはずです。おそらく夜明けと同時に使者を派遣するのではないかと。ですから……もう少しだけ待ってみては……」

 だが、足はもう室内を横切り出していた。

「お願いです、ファウロに戻るのは止めて下さいっ。マキス殿が必ず何かしら連絡を、姫と殿がどうなっているのかの状況を知らせてくれるはずです。それを待って下さい。待ってからここを出ても遅くないはずですっ」

 全く聞いていない。部屋の扉から半身を乗り出し、通廊に誰もいないのを確認している。

 気の毒な年若の郎党は、先程まで嫡子を縛っていた縄で、逆に自らが手首をくくられた。部屋に取り残されようとしていた。己の任務の失態と、純粋な自家の嫡子への心配とが混ざり合い、歪んだ顔はついに今、に泣き出した。泣きながら真実を言ってしまった。

「今、貴方様が帰っても、何にもなりません、イルシオ様っ」

 その言葉にイルシオは振り向いた。

 その顔からはもう、昨日の昼までの曇りの無い眼は消えていた。ただ、暗い憎悪を抱き、光を拒絶していた。

 薄暗い室内から出て、通廊を抜ける。外への扉の把手を引いた時、大量の霧が体にまとわりついた。一言もなく、音を立てることもなく、イルシオの霧の中へ消えた。

 ……霧の深い朝。ナロドニア家のイルシオの行方は、消えた。



【 前半終了 】

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