5・『 呪われるべき悪党どもが……っ 』
5・『 呪われるべき悪党どもが……っ 』
(何があったんだ?)
マキスも立ち止まり、振り返った。
狩りの中止を告げる角笛が何度も何度も繰り返されて、鳴り止まない。ぶ厚く茂った枝が、頭上を覆い、世界の光が減っている。空気が不穏と緊張を帯びているのを覚える。
(何かが、あったのか?)
馬の腹を蹴る。角笛は少しずつ近づいている。こちらもそれを真っ直ぐに追いかける。追いかけながら頭の中はもう一度、この異変を、ヴィアを考える。
(見つからないはずはないんだ。これだけ探しているのに。なのにどうしてヴィアは見つからない? そんなに森の奥へと入り込んだのか? なぜ? どこへ?)
角笛は鳴り続けている。小川の浅瀬を渡る。
木々の枝はいよいよ重なり、いよいよ光を減らしてゆく。乾いた空気は消え、湿気が淀んでいる。途絶えがちの細道の足許では岩が目立ち出し、地面は水溜りと泥にぬかるむ。現れたごつごつの岩の所で、マキスは大きく迂回するよう右に回り、
はっと、思わず止まった。
アルグートの女王が、泥にうずくまっていた。
ぞくりと、背筋に緊張が走った。物音を立てるのを躊躇しながら、彼は馬から下りる。音を立てない十五歩で、女王の真横に達した。
女王は、身を丸く、小さく曲げて伏している。顔を伏せたまま、細かく震えている。泣いているのだ。
「アルグートの、女王陛下……?」
声を殺して泣く女王へと身をかがめて手を伸ばそうとし、
その手が止まった。見つけた!
かがんだ低い位置からの視界の、右隅に見つけた。白色。上質な織布の、探していた白い華やかな服装はしかし、血に汚れている!
「ヴィア! 血が――何がっ」
と、ヴィアがよろめく様に動いた。這いつくばるように後ずさったのだ。
「待って! なぜ逃げる? ヴィア、血が――っ」
即座追いかけようと踏み出した足が、よろめいた。何か、木の根か石か何かにつまずきかけた。それを無視して走ろうとした時、
今度こそマキスははっきりと見てしまった。
木でも石でも無い。赤子だった。文字通り、血に塗れ、泥に塗れ、完全に息絶えた赤子の体だったのだ。
(なぜ!)
その赤黒い塊から二歩分離れたぬかるみの上、たっぷり血と脂を吸った短刀が鈍い光を帯びたまま落ちていた。それは――つまり――、
(あぁ……神様……)
冷静を質とするはずの男が、冷静を失い出した。即座に把握し、対策しなければならない事態が目の前にあるのに、思考が回らなくなった。その場に呆然と立ち尽くしてしまった。
角笛は、徐々に近づいて来る。すぐに殿もイルシオも王も豪族達も、皆がここにやってくると分かる。そしてヴィアは、よろけ倒れそうな足で、それでも森の奥の方へと逃げ込もうとしている。
左手の奥から複数の蹄音が聞こえ出した。マキスはどう対処すればよいのか、判断が出来ない。
・ ・ ・
森の奥の狭い一角に、百人を超すファウロの豪族やその郎党・雑役、馬や犬達までもが集まっていた。全員がひしめき合うように立っていた。
犬がうるさく吠え続けている。人はといえば、誰もが目の前の惨状に騒ぎ立て、憤慨し、あるいは泣き声をもらしている。なのに誰も事態に手を付けない。赤黒い肉塊と化した赤子は、いまだに無慈悲に人目にさらされている。
(酷い様だ……あんな赤子に……)
(あの短剣……あれで……)
(双子の王子が最初に見つけて捕えようとした時、暴れて逃げて……)
(まさかそんなことが有り得るのか? まさかナロドニアの……)
「まだ見つからないのか!」
サナタイの激怒に、王城の衛兵長は身を縮めた。
「早くしろ! 小娘を逃がすなっ、そんな事になったら貴様を代わりに罰するぞっ。
――ナロドニア!」
ティタン・ナロドニアは、じっと立ち尽くしていた。
王の声など聞こえてない。最初からずっと、一言も口を効かない。眼を極限まで見開き、白髪交じりの眉を引きつらせ、口角を切れんばかりに引き締めた顔で、泥に塗れた死体を見据えている。
「ナロドニア! 私の前へ来いっ、聞こえないのか、ここへ来い、貴様っ、
誰かナロドニアを引っ張って来い! 縄をかけてでも引っ張って来い!」
「お待ち下さいっ」
その声は激しく震えてしまった。イルシオは父の脇を離れ、夢中で王の許へ走った。
「お待ち下さい、父は今――、今、父は混乱をしています。ですから、私が。私が父に代わり、私が――」
「混乱だと?」
サナタイは一度、言葉を切った。動揺をさらすイルシオの顔を、まずは一度力任せに殴った。
「何があっても貴様の一族は許さないぞっ。何が“血の供儀”だ、人目に隠れてこんな卑怯な手段に出るとは! しかもまさか、小娘の手を使うとはな!」
「お待ち下さい、まだヴィアがやったとは決まっていません」
「よくも抜け抜けとっ。女王の子息達が目撃しているんだ! 彼らが嘘をついているとでも言うのか!」
「いえ――そうは。しかし有り得ませんっ。ヴィアでは有りません、仔犬が死んだだけでも何日も泣くような妹です。あの子の優しさならば多くの人々が知っている。有り得ません、どうしてこんな事になったのか――」
「それこそ私の知りたいところだ! 言えっ、ナロドニアが吹き込んだのか? それとも貴様か? 一族の誇りの為に無垢の赤子を殺せと命じたのは誰だ! あの娘――大人しそうな小娘の顔で、中身は最悪の売女が!」
途端、我慢は限界を超え、感情のままあらん限りにイルシオを叫んだ。
「止めろっ、ヴィアへの侮辱は王でも許さない!」
「何だと! 無礼な下種が、黙れ!」
「貴様こそ黙れ! ヴィアじゃない!」
「それが王である私への口の効き方かっ、貴様の口を呪え!」
再びサナタイの右腕が上がる。それにイルシオは応じてしまう。一瞬身を逸らして拳を避けるや、逆に王の胸を力任せに殴ってしまった。
あっという声が周囲から上がる。サナタイは泥の上に落ちた。次の瞬間、驚愕と羞恥と激怒のままに叫んだ。
「こいつを捕えろ!」
たちどころに周囲の兵達が飛びかかる。散々に抵抗をした果て、イルシオは完全に両腕を押さえ込まれる。それでも叫ぶ。
「ヴィアじゃない! ヴィアは人殺しなどしないっ、するものか!」
「黙れ! 卑怯極まりない残虐なナロドニア家がっ」
「卑怯呼ばわりするな! これはヴィアじゃない――ヴィアでは絶対に無い!」
「人殺しどもが! 死で贖罪しろ!」
怒りに任せてサナタイが腰の剣を抜くや、大きくイルシオの頭上に振りかざした。人々が悲鳴を上げたその時だ。
ドサリという巨大な物音が背後から響いた。
ティタン・ナロドニアが倒れていた。
一言も発さず白目を剥き、口端から泡を漏らしながら失神してしまっていた。彼の並み外れた矜持は、栄誉に包まれるべき己の一族に降りかかった途方もない汚辱を、自らの神経ごと拒絶してしまった。
「父上!」
だが今度は群衆の右側が、ざわめき出した。
……人々の右手、茂った木々の陰の辺りから、四・五人の兵士達が現れてきた。
彼らは、見事に任務を遂行していた。ナロドニア家の家令・マキスは後ろ手に捕縛をされ、蒼ざめた顔で連行されていた。そしてもう一人の捕囚は、
「ヴィア!」
ナロドニア家のヴィアは、両脇を兵士達に掴まれながら引きずられてきた。
贅沢な刺繍取りの白い衣装は、泥と血とによって無残に汚れてしまった。結い上げていた髪は全てほどけ、泥と木屑に塗れていた。その顔は俯かれたまま、完全に表情を失っていた。
ここに、忌むべきナロドニア家の面々が揃った。両腕を捕らえられたイルシオ……。捕縛されたマキス……。ふらついたまま両脇から支えられているヴィア……。虚空に白目を剥いて倒れたままのナロドニア……。
「……呪われるべき悪党どもが!」
凍りついたような場を、サナタイの怒声が破った。
「貴様達はどれ程に厳しい処罰を受けても文句は言えないはずだっ。特に貴様――虫も殺さなそうな可愛い顔で無垢の赤子を惨殺するとはな。淫売がっ」
押さえつけられた両腕を引きちぎらんばかりにイルシオが叫ぶ。
「ヴィアを見るな! サナタイっ、貴様の汚い目でヴィアを見るなっ。――誰だ、ヴィアをこんな目に合わせたのはっ。ヴィアのはずないっ、赤ん坊を殺したなんて、誰がそんな汚らしい濡れ衣をヴィアに――っ、見るな――!」
「まだ罪を認めないのか? ――ラバストっ。ディルっ」
やっとその名が呼ばれた。人垣の後ろで薄ら笑いを浮かべて見ていた双子が今ようやく、足取りを揃えて王の前へと進み出てきたのだ。
どこか犬を思わせる顔が二つ、まずはルム王にわざとらしい丁重さで礼を捧げる。続き、心底より面白そうな目付きでイルシオを見据える。
「ラバスト。ディル。お前達に訊く。お前達の神に賭けて、真実を言え。
お前達は見たんだな。この小娘が短刀を使って弟を刺殺していたところを見たんだな」
兄か弟か、右の方があっさり答えた。
「その通りだよ」
「嘘を――! よくも抜け抜けと嘘を!」
「すぐに俺達は弟の仇を取ろうとあの娘に襲いかかった。隙を突かれて森に逃げ込まれてしまったが、今ようやく逮捕できたって訳だ」
「嘘だ! 違う! 嘘だ! それが真実のはずないっ、なぜヴィアに真実を喋らせないんだ!」
「そうだな。いいぜ。面白い。喋らせてみせろよ、俺達は構わないぜ。そうだよな、ラバスト?」
「構わない。面白いから弁明させてやれよ」
あっさりとイルシオの要求が通ったのだ。
すぐ様イルシオは押さえつけられていた腕を振り払う。まずは力強く妹を抱きしめた。くしゃくしゃに泥塗れになった髪を撫でた。
「ヴィア……可哀想に……。なぜお前がこんな目に――」
俯いたままの妹の顔を必死で見た。
「なんでこんな目に――赤ん坊を殺せるはずなんてないのに……そんな事、解り切っているのに……」
そっと頬に両手を当て、妹の顔を持ち上げ、慈しむ様にそれを自分に向けさせて――
“キジを獲って来て”
今、初めて気付いた。――おかしい。
「ヴィア……どうしたんだ、こっちを見て……」
“上着の飾りにしたいの、だからキジを”
「……どうして……なぜ? 分からないのか? なぜ見ないんだ、私を――」
「駄目なんだ」
縛られたままのマキスが、苦渋の声を漏らした。
「ヴィアは、答えられない。イルシオ。何も、答えられないから……」
「答えられないんだよ! このお姫様はっ」
双子が笑いながら同時に、同じ口調で叫んだのだ。
「答えられないんだよ、お姫様は完全にいかれてしまったんだよっ。聖者全員の名においてお姫様は壊れて、狂ってしまったんだよっ。
さっさと殺しても良かったんだがな。でも完全に狂って、何も喋れなくなってしまってさ、だから殺すには勿体無くてっ。だって面白過ぎるだろう?
笑ってしまうぜ! まさかこんな風になるとはな! 神も聖者もきちんと見ているって事だな!」
双子の下卑た笑い声が響き渡ったその時、イルシオの直感が動いた。今、全て理解出来た。ヴィアの身の上に起こった事。正気を失わされる程の恐怖。双子の馬鹿笑い。
――この双子にされた、正気を失わされる程の深い恐怖と傷。
突然、イルシオの両腕が、双子の一人の首を鷲掴む。へし折ろうと力づくで押し倒す。
「イルシオ、止めろ! イルシオ!」
「奴を捕えろっ、早くっ」
怒声やら悲鳴やらが一斉に上がる。短い混乱の果て、気がついた時イルシオは、鳩尾への激痛と共に、泥の地面に叩き落されていた。
サナタイの鋭い大声が響いた。
「静まれ! 騒ぐな、皆聞けっ。ルム王である私が命ずる!
ナロドニア家の面々、ティタン・ヴィア・イルシオ・その家令も含め、全員を王城の獄に繋ぐ。審問の上、それぞれに相応しい刑罰を下す」
「ヴィアには手を触れさせない、貴様っ、それに双子! みんな地獄に落としてやる! 貴様達を一人残らず――」
地面に倒れたままのイルシオの腹を、ディルが思い切り蹴り、残りの呪詛は喉に消える。それでも抵抗する。胸に縄をかけようとする兵士達に必死で抵抗しながら夢中で叫び続ける。
「ヴィアには絶対に――! 呪われろ、双子! 殺せたのに――戦場で殺せたのに……殺しておけばよかったんだ、悪魔が!」
両腕は捕縛され、もう一度強く蹴られる。“全員を連行しろ”との王の声が響いた。その時だ。
……ざわめいていた人々の声が、ゆっくりと引いてゆくのが分かった。
なぜだろう? この男が現れると、いつも空気が変わり、誰もが口を閉じて注目をしてしまう。
「エアリア、こんな時にどこにいたっ」
アルグートの女王の相談役は、静かに混乱と暴力の場に姿を現した。一人だけ、争乱の現実から程遠い柔らかさと落ち着きで、まずはルム王へ深い敬意を示した。それからゆったりの口調で語り出したのだ。
「申し訳有りません。今まで、天幕へと運び込まれましたターラ女王の傍らにて看病をしておりました。
女王におかれましては、先程ようやくお気を取り戻されました。慈しんでおられた幼い王子の死に大変な衝撃を受け、ひたすらに涙を流しておられました。ですがしかし、それでも寛大なるサナタイ王陛下に今すぐに奏上なさりたい御言葉があるとの事でした」
「何だ?」
「女王はルム王陛下に、早急で感情的な裁決は避けて頂きたいと願い出ておられます。この件でナロドニア家へ対して、必要の以上の厳罰を下すのだけは回避して頂きたいとの御言葉です」
え?
と、誰もが思ったはずだ。いや、誰よりも驚いたのは双子だった。
「なぜだよっ」
確かになぜだ? 己の息子を殺された事に、怒り狂って復讐を欲するのが正当だ。これで恨み積るイルシオを一族ごと潰せるというのに。
疑問と不満の顔の双子の前で、エアリアはゆっくりと続けた。
「サナタイ陛下に、申し上げます。
少なくとも現時点では、家長ティタン殿の正確な罪状は確立されていません。ナロドニア家の家令の方も、姫を護って逃がそうとして、兵達と揉めただけです。取り敢えずこの御二方は、今の時点では獄に繋がれるほどの罪状とはならないでしょう。
イルシオ殿につきましては、ルム国王陛下を侮辱した罪は確かに重大ですが、しかしながら先の戦役においてアルグート国よりの降伏を受け入れ、兵士や民の生命を保証して下さった点におきまして、女王は恩義を忘れずにいらっしゃいます。
ルム王陛下におきましては、深く御配慮をして頂きたい旨を、願い出ておられます。
如何でしょうか。御慈悲と御寛大とを是非ともお示し頂けたらと願われている所存です」
(なぜだ?)
それでなくとも混乱したイルシオの思考と感情は、さらに混乱に陥る。もう何も解らない。
(なぜだ? なぜそうなるんだ? もう考えられない。今自分に、ヴィアに、ナロドニア家になにが起こっているんだ?)
「どうして……?」
泥に倒れたまま振り上げた眼が、エアリアと真っ向から向かい合う。
エアリアの夜のように冷えた色の眼が、怒りに焼かれる自分の感情を吸い込いでゆく。熱を奪い、薄ら寒い恐怖へ誘っていく。その様に感じる。
「イルシオ殿。お立ち上がり下さい」
「……」
「貴方には泥に塗れているなどは、相応しく有りませんよ。
さあ。しっかりとお立ち下さい。貴方には、なさるべき事がお有りなのでは?」
(やるべき事……それは……)
混乱した世界の中で、エアリアの眼だけが優雅な美しさだった。