7. 後宮と桃春
琉杏達は今日は早朝から出ていたため、夕方には仕事上がりらしい。瑠杏達と別れた後、言われていた掃除を終わらせたくらいでちょうど桃春の夕餉を下げる時間になったので彼女の部屋へ急ぎ戻る。
夜の帳もすっかり落ち、回廊の柱に煌々と火が灯っていた。後宮を囲む堀の水面に灯りが落ち、肌寒い風が建物の間を吹き抜けると橙色の影もゆらゆらと揺れた。薄着でいると風邪を引きそうだ。
「ただいま戻りまし――」
桃春の房間の扉をくぐると同時に、勢いよく私の顔の横を何かが通過した。
ちらりと目だけで確認すると、飛んできたのはどうやら箸のようだ。背後の衝立にぶつかって落下した箸が床に転がっていく。
瑠杏と玉鈴と話して燕子の衝撃で曇っていた気分が更に曇る。今度は一体なに……。
「柊月! 貴女の不手際ね!!」
箸を投げつけた格好のまま、桃春が目を釣り上げて私を睨んでいた。
「私の嫌いな魚が入ってたわ! こんな食事早く下げてちょうだい! 二度と出すなって尚食に伝えて!」
桃春の前に置かれている食膳には魚をふんだんに使った豪華な夕餉が並んでいたが、桃春はほとんど手をつけていなかった。
なんてもったいない。
鱈魚に、帯魚まである。藍家ですら出たことのない立派な食事だ。内陸の陽威で海の魚が食べられるなんて、どんなに贅沢なことか知らないのか。
そんな桃春の様子を、他の侍女らは壁際から遠巻きに見ていた。
家から連れてきた侍女二人は、またかといった顔で黙って俯いている。それとは別に、後宮付きの雑用係の宮女も一人いるが、こちらは完全に引いていた。
どん引きである。私もどん引きなので、気持ちはすごくわかる。
「ねえ、そこの宮女、早くこれを下げなさい!」
桃春がどん引き中の宮女を見ながら食膳を叩く。
「は、はい……」
その子が恐る恐る投げられた箸を回収して食膳を下げる。手が震えていて、なかなか食器が片付けられない。
苛立った様子でそれを見ていた桃春が、卓子に置いてあった湯呑をその子に投げた。ぱしゃりと中の茶が溢れて彼女の服を濡らす。
「遅いわ! 早く私の目の前から下げてってば!」
「桃春様」
見ていられなくて思わず私が間に入ると、桃春はきっと目を眇める。
「あら、何か文句でもあるのかしら?」
「お止めください」
「なぁにそれ。貴女が私に物を言える立場なの?」
横の宮女はカタカタと震えていた。藍家で母に湯呑を引っ掛けられた自分を思い出す。こんなの、見ていられない。
「やりすぎです。後は私が片付けますから」
震える宮女と私、そして壁際の俯く侍女らを見て、桃春はふんと鼻を鳴らした。
「惨めったらしい……もういいわ。勝手にやって」
なら勝手にやらせてもらう。私が宮女に手を差し出すと、その子はありがとうございますと小声で呟いた。
落ちている湯呑を拾って手早く片付けていると、コンコンと桃春が沓で床を叩いた。何かと思って顔を上げる。
「ねえ、甜点はないの?」
「甜点ですか?」
今度は何だ。
「うちでは必ず出ていたじゃない。食事がろくに食べられなかったから、甜点くらいは欲しいわ。柊月、貰ってきて」
そんな無茶な。
ここは後宮であって、融通のきく家じゃないのだから。
呆れ半分で返答に困っていると、桃春が大袈裟にため息をついた。
「相変わらず使えない……もういいわ。主人にまともな食事も出せない柊月は、罰として今日の夕餉は抜き。いいわね?」
壁際の侍女達もとばっちりを恐れてか俯いて何も言わない。私はゆっくり息を吐くと、頭を下げた。
「かしこまりました」
「ふん」
気が済んだのか、桃春は立ち上がって奥の牀榻へ向かう。
桃春に解雇されるまでの、あと少しの辛抱だ。
内心ため息をつきながら片付けをしていると、奥に消える直前、桃春が思い出したように振り返った。
「柊月。来月の酒宴で着る衣装が尚服に届いているはずだから確認しておいて。不備があったら許さないわ」
「今からですか?」
「その日は初めて殿下に謁見する日よ。とびっきり綺麗な格好でお会いしたいの。その後はやっと正式に妃の位につけるしね。楽しみだわ」
ふふふと鈴を転がすように笑った桃春は大きな丸い目をきゅっと細めて私を見下ろした。
「全て今日中に終わらせて。いいわね?」
「……かしこまりました」
私の返事に満足したのか桃春は足取り軽く奥へ姿を消した。
桃春含む異術妃達は未だ皇太子の妃として正式な位を持っていない。桃春は冊封されるのを心待ちにしているようだ。
皇太子の後宮は、太子妃を頂点に、上の位から良娣、良媛、承徽、昭訓、奉儀の順に妃が存在する。それぞれの位毎に冊封できる妃の人数は決まっており、誰がどこの位につくかは、家柄や皇太子からの寵愛、その他外廷の権力図云々によって決まる。
家柄だけで言えば、藍家は現状今の後宮で一番上だ。きっと桃春は一番高い位……太子妃か良娣に冊封されるのを期待しているんだろう。順当にいけば良娣は堅いだろうし、桃春のうきうきとした様子がわからなくもない。
まあ、これで他の才四家の本家筋がくれば藍家は采四家で一番格下になってしまうが、今は考えなくてもいい話だ。
晩ごはん抜きは慣れっこだが、これから衣装の確認となるとかなり時間を使いそうだ。今日は何時に寝れるだろう。
これからの予定を考えていると、鼻をすする音がした。横を見ると、例の宮女が服の濡れたところを手ぬぐいで擦りながら泣いていた。
「大丈夫ですか?」
大丈夫じゃないから泣いているんでしょうに。
心の中で自分で自分にツッコむ。もっと気の利くことが言えたらいいのに。対人能力の低い己を恨む。
「だ、大丈夫です……すみません、ごめんなさい」
その子は小柄で幾分か私より若そうだった。十三、四といったくらいか。手荒れした指先や日焼けした肌が、いかにも下女といった風貌だ。涙に濡れた大きな目は小動物を思わせた。
「謝らないでください。お茶、熱くなかったですか? 火傷してませんか?」
「はい、平気です」
「それはよかったです」
私も自分の手ぬぐいを出して彼女の服を拭いていると、手の甲にポタポタと涙が落ちてきた。彼女の目から大粒の涙が零れ落ちる。
ひっくひっくとしゃくり上げて泣くその子を見ていると、苛めに耐えかねて泣いていた幼い頃の自分を思い出して心が痛んだ。
視線を巡らすと藍家から連れてきた侍女二人が目に入った。桃春の世話をするべく、欠伸をしながら桃春の寝室へ向かっているところだった。
桃春は面倒な仕事を全て私に振っているので、あの二人はたいした仕事もなく毎日暇そうである。
彼女らは私と目が合うと、わざとらしく視線をそらしてそそくさと退散してしまった。こんな泣いている子を前にしてあの人達は人の心がないのか。
「あの……」
寝室を睨んでいた私の袖が小さく引かれる。
「本当にありがとうございました。あたし、阿子といいます。庇っていただいた上に手ぬぐいまで汚してしまって、なんとお礼を言ったらいいか……」
雀斑の多い頬に涙の跡をつけたまま、阿子が深々と頭を下げる。私は、阿子の肩をそっと掴んで顔を上げさせる。
「私がやりたくてやったことなので、そんなに頭を下げないでください。悪いのは桃春……様です」
桃春と呼びかけて、慌てて様を付け足した。阿子は最初きょとんしていたが、ゆっくりと頷いて笑ってくれた。
「ありがとうございます、柊月さん」
阿子は涙を拭うと、桃春の前でいたときよりも手際よく片付けを始めた。その早さや手慣れた様子に、さっきは緊張や恐怖から動けなかっただけで、本来の阿子は仕事ができる子なんだろうなと思った。
阿子は一通り片付けると、私の手をがしりと掴んだ。
「侍女をされるような高位の女官の方が、私のような下女に優しくしてくださるなんて……このご恩は決して忘れませんから」
「あ、阿子さん? そんな大袈裟な」
「さんは不要です。阿子と呼んでください。あの、よければこの後の柊月さんのお仕事をお手伝いしてもいいですか?」
阿子の頭に耳が見える。あとお尻に尻尾も。幻覚だとわかっているけど、阿子が子犬のように見える。
「でも」
「柊月さんは先に保管庫へ行っててください。食膳を下げてきたらすぐにあたしも行きます」
「……わかりました、ありがとうございます」
勢いに押されて頷くしかなかった。
目を輝かせて喜ぶ阿子。なんだかひどく懐かれてしまったようだった。
阿子が膳を抱えてパタパタと駆けていく姿を見送る。
私は言われた通り衣装や服飾品を仕舞っている保管庫へと向かった。
走廊にはほとんど人がおらず、各部屋の衝立から灯りだけが漏れている。物音もほとんどしない。
皆自室に下がっているのだろう。いいな、私も早く終わらせて寝たい。
ひとり足早に歩いていると、向こうから宦官が歩いてきた。
このあたりでは見ない顔だ。中性的な顔立ちで、眉間の深い皺が近寄り難さを生んでいる。両手に木簡を抱えて上等な仕立ての服を着ており、恐らく宦官の中でも高官だろう。
端に寄って礼をすると、ちらりと横目で見られただけでそのまま通り過ぎていった。忙しそうだ。
「私も仕事終わったら早く寝よう」
欠伸を噛み殺して廊下を急いだ。
* * *
緑紹は深く深くため息をついた。横を通り過ぎていった女官は、時間帯からしておそらく仕事上がりだろう。これから寝るだけとは羨ましいかぎりである。
何度も走廊の角を曲がり、悧珀が休んでいる宮まで戻る。
「緑紹、戻ったね。進捗はどう?」
宮に戻るなり悧珀から質問が飛ぶ。緑紹は頭を下げる。
「申し訳ありません。未だ見つかっておりません」
悧珀は首を掻きながら天を仰ぐ。
「どこに行ったんだろうね」
悧珀から燕子発見の一報を受けてから早一月。近衛兵をも使って、悧珀が見つけたというあたりをくまなく捜索した……のだが。
その女性が一向に見つからない。
悧珀曰く、女性は小柄で華奢、年は十代後半。波打つ長い黒髪に漆黒の大きな瞳、整った顔立ちをしているが化粧っ気はなし。身なりが貧しいため、どこか貧しい庶民の家の者ではないかとのことだった。
緑紹は手にしていた木簡を卓子に置く。
「こちら、才門より借りてきた術者の戸籍ですが……」
「才門が稀者の存在自体把握していないなら、ほとんど役に立たないだろうね」
「そうですよね」
二人してため息が漏れる。
「これだけ探してもいないとなると、見間違いか、あるいは住まいが陽威ではないかのどちらかか……いや、見間違いはありえませんね」
緑紹がちらりと悧珀を見やる。悧珀の琥珀のような瞳は窓の外を見つめている。コツコツと卓子を叩く長い指の一つにはめられた銀の環がぶつかって音を立てる。
悧珀が稀物を見つけたと言うならば確実にいたのだ。見間違える訳がない。
「となると、首都を離れた可能性が高い、か」
悧珀の呟きは緑紹に重くのしかかる。
榮芳国は広大だ。首都陽威を離れられてしまうと、捜索の手が伸ばしづらい。もし燕子が本当に陽威の外にいるのであれば、見つけることは困難だ。
「悧珀様の御代に燕子が皇后となる。きっと多大な助けになるに違いありません。必ずや見つけ出します」
燕子を皇后として戴けば、悧珀が皇帝として立った際に箔がつく。なんとしてでも燕子を確保して、悧珀の太子妃に据えねばならない。
もし他の皇子に燕子を横取りされようものなら、それを理由に悧珀の皇太子の地位を脅かしてくるだろう。燕子の存在が世に知れたら、仲の悪い皇子らの格好の餌になる。燕子の奪い合いになることは目に見えていた。
それほど燕子は皇后として価値のある存在なのだ。
「そうだね。頼むよ、緑紹」
悧珀の言葉に緑紹は深く頭を下げた。
――その燕子たる柊月が、先程すれ違った宮女だとは、露も知らない二人であった。