30. 新たな燕子
太子妃選儀が数日後に迫ってきたある日。
報せはいきなり飛び込んできた。
机に向かう私の近くで、それまで静かに作業していた阿子が歓声を上げた。振り返って見ると、私が太子妃選儀で身に着ける物一式が届いたようだった。目を輝かせて衣装を広げている。
「わあ! 柊月様見てください、すごく綺麗なお衣装ですよ!」
騒ぐ阿子の手の中には藍を基調とした上衣があった。銀糸で細かく花の刺繍が施されているそれは、繊細な中にも華やかがある。横に畳まれている雪色の裾子は薄絹を重ねたつくりで目を引く。他にも帯に沓、豪奢な歩揺、耳環も全て揃えてあった。
「やはり悧珀様のお選びになる物に間違いはありませんね」
横から覗き込む明睿も満足げだ。
これら全てが悧珀の見立てだというのだから驚きだ。悧珀は普段着飾ることに興味がないので服も適当かと思いきや、流石皇家の生まれというべきか、目利きと美的感覚はしっかりあるのだから狡いと思う。
「これは悧珀様が柊月様のために誂えた物だそうですよ。素敵ですねぇ……当日が楽しみです!」
阿子が嬉しそうに手を叩く。
もともと桂花宮と尚服主導で私の当日の衣装を仕立てていたのだが、少し前に悧珀の方から突然用意すると言ってきた。多分、私を着飾ってそれなりにしないと燕子の妃として見栄えしないから、悧珀が中心となって用意してくれたのだろう。見栄えのしない貧相な自分の形が悲しくなる。
現状、すっかり私は悧珀の未来の太子妃、ただひとりの寵妃として扱われていた。
悧珀は最初の宣言通り、私のもとにしか通っていないようだった。時折ふらっと桂花宮へやって来ては、少し話をして帰っていく。泊まることもありはするが、悧珀は牀榻で、私は長榻で寝るだけ。何かあるわけでもない。
少しくらい他の妃のところへも行けばいいのに、悧珀は頑なにここへしか来ない。折角可愛くて綺麗な妃が大勢いて、皆が悧珀が訪れるのを心待ちにしてるのに。世の男達がこのことを聞いたら発狂するに決まっている。
「柊月様、どうしました?」
阿子がきょとんとして私を見上げていたので、頭を振って思考を切り替える。
「なんでもありません。阿子、衣装の管理をお願いしてもいいですか?」
「はい!」
阿子の張り切る姿を見て私も気合を入れ直す。
太子妃選儀まであと少しだ。頑張らねば。
最近は、絶え間なく続いていた嫌がらせの贈物も減ってきて、あからさまな悪意は見なくなった。私が悧珀と皿を捜索した話が後宮に出回って、おかげで稀物の異術妃として一目置かれるようになった。悧珀が個人的に連れ出したというのも大きいようで、寵妃としての立場が固くなった。
後宮へ来てから一番穏やかな日々かもしれない。これも悧珀の思惑なのだろうか。
反面、桃春の動きが何もないことが気になった。彼女は今、何をしているんだろうなどと、しなくてもいい心配をしてしまう。悪いことがないことはいいことだ。前向きに考えよう。
私はため息をついて、再度机に向かおうとした。
そのとき、部屋の外が騒がしいことに気づいた。バタバタと慌ただしく走廊を走る音に、大きな人の声もする。
「随分騒がしいですね」
明睿が眉を寄せる。
桂花宮は、出入りできる人間も限られているし、滅多なことがなければ面会もないはずだ。
「一度外を見て――」
明睿が外に向かいかけたそのとき、バタンと目の前の扉が開いた。
「燕良娣!申し訳御座いません、至急お伺いしたいことが」
息を切らした女官が裾も捲れた状態で膝をつく。服装からして桂花宮の女官ではない。何処の所属だろうか。
阿子が立ち上がる。
「断りもなしに居室に入室するとは何事ですか!」
「阿子、大丈夫ですから」
阿子がその女官を叱るも、女官は申し訳御座いませんと繰り返して跪礼のまま私の方へ進んだ。
「どうしました」
私が女官に促すと、つっかえながら彼女が話し出す。
「たった今、令明門より金家の姫様が後宮へご入城なされました。にょ、女官らも門人らも本日妃嬪の入内があるとは聞いておらず、皆混乱しております」
「金家の、入内……?」
明睿を振り返るも、明睿も不審そうに首を振る。
「太子妃不在の現在、後宮を取り仕切るのは燕良娣ですので、何かご存知かと思いまして……」
私も何も知らない。悧珀からも特に言われていない。
「申し訳ありません。私も何も聞いていません」
「左様でございますか」
女官は困ったように視線を彷徨わせる。
采四家筆頭の金家の入内となれば、かなりの大事。誰も知らないのはおかしい。
「入内されたのは金家のどなたです?」
采四家の姫なら名前を聞けば私でもわかるはずだ。
確か、采四家の異術妃候補は私を除くと桃春が最年長。他の姫達はまだ年若く、今年の入内には間に合わないと聞いていた。今になって突然の後宮入りというのは違和感がある。
「金家本家の姫様、金瑶様です」
「瑶様?」
聞いたことのない名前だ。私が無知なだけだろうか。
「燕妃さまと同じ燕子様だそうです。才門より通達が御座いました」
ピキン、と時間が止まった気がした。
えんし、燕子。つまり、稀者。私と同じ。
「……そんな馬鹿な」
後ろにいた明睿が呟く。私が振り返る間もなく明睿が失礼しますと言い残して部屋を出ていく。
「待ってください!」
呼び止めるも明睿は振り返らない。あの冷静沈着な明睿がこれほど慌てるのだから、緊急事態なのだ。私も後を追うように外に出る。背後の女官と阿子が声を上げるが、振り返る余裕はなかった。
足の早い明睿に追いつこうにも、服が重くてなかなか距離が縮まらない。そのまま引き離されて見失うかと思ったが、何かを見つけたのか明睿が突然立ち止まってくれたお陰で追いつくことができた。
桂花宮から隣の宮へ渡る橋の上、私は息を切らしてなんとか明睿の横に立つ。
「柊月様、何故追ってきたのです」
呆れたように明睿が私を見下ろす。そしてゆっくりと橋の上から池の向こうを指さした。指先を追うと、その先には大勢の侍従を連れた華やかな集団がゆっくりと門を潜っているのが見えた。
「あちらが金家の姫らしいですね。金瑶様でしたか」
「……あれが」
遠いのではっきりと顔はわからない。が、とても小柄で、膝裏まで届くような長く美しい黒髪が印象的だった。付き従う侍女も軒並み豪奢な衣装を着込み、他家とは比べ物にならないほど豪華な輿入れである。流石采四家で最も権力を持つ家だ。
しかも燕子となると破格の資金が動いているに違いない。私のような日陰者が事故で後宮入りしてしまったのとは訳が違う。
「才門も把握していない燕子が今になって現れるなど、本来ならありえないことです」
明睿が不信そうに金瑶の一団を見つめる。
『燕子を皇后に据えた王朝は栄える』
だから悧珀は私を担ぎ上げた。別に私がよかったわけじゃない。燕子であれば私でなくても悧珀の太子妃はつとまる。しかも金家は家柄が藍家の比ではない。
これはもしかすると。いや、もしかしなくても。
私、お役御免になるのでは?
「柊月様、大丈夫ですか?」
明睿が覗き込む。
「……ごめんなさい。私は部屋に戻ります」
「本当に大丈夫ですか? 今人を呼びますから、お一人で動かれませんように」
誰か、と声を上げる明睿。私は振り返って金家の入内の一団を眺めた。
なんだか色々とややこしくなってきた。一波乱起きそうな予感だ。




