3. 爪弾き
春聯で飾り立てられた表門を通り過ぎ、裏門から入る。正房からは賑やかな声が聞こえてくる。使用人も走廊にほとんどおらず、いたとしても私とすれ違うと、皆気まずそうに顔を伏せて足早に通り過ぎてしまう。
この家に、私の居場所なんてない。早く食材置いて自室に帰ろう。書斎からこっそり持ち出した本がある。用事を言いつけられるまで籠もって読んでいよう。
なるべく足音を立てないように走廊を歩いていると、曲がり角から不意に人影が現れてぶつかりそうになった。慌てて後ろに避ける。
「あら、お姉様じゃない」
げ、という声を飲みこめたことを褒めてほしい。ゆっくりと顔を上げると、茶色がかった瞳と視線とかち合う。長い睫毛に彩られた形のいい目が瞬きする。
「桃春……」
「やっと買い物から戻ってきたんですか? お父様がお姉様のことを探してましたわ」
赤を基調とした裙子に、刺繍を凝らした上衣、玉の簪で飾り立てた艷やかな黒髪。耳飾りが動く度に綺羅綺羅と輝く。
今日の主役であろう妹の桃春は、まさにハレの日の衣装といった出で立ちだった。継ぎ接ぎだらけの服を着ている私とは大違いである。
後宮へ入るための仕度でここ最近忙しくしていた桃春と直接会うのは久しぶりだった。以前よりも肌艶もよく、美しさに磨きをかけているようだった。愛らしく整った顔立ちに化粧がよく映える。
そんな彼女は、私を上から下まで見やると、ふふと笑った。
「お久しぶりですね。……相変わらず酷い格好。私の着なくなった服を差し上げたいくらい」
桃春の吊り目がちな目元には、こちらを馬鹿にしたような表情が浮かんでいる。いつもの嫌味だ。
無言でいると桃春の丸い目がきゅっと細められた。
「お姉様、おかわいそう。同じ姉妹なのに全然違いますよね、私達」
全くかわいそうと思っていなさそうな顔で言われても。せめてもっとそれらしく言えばいいのに、随分と白々しい。私が言い返して食いついてくるのを待ってるんだろう。
自慢じゃないが、私にはそこまでの可愛げはもう残っていない。長年陰口嫌味で殴られ続けてきた女を舐めるでない。
かたや皇太子の後宮入りが決まっている両親の手厚い寵愛を受けた未来の明るい次女、かたや未来に望みなしと勝手に切り捨てられた要らない長女。
両親は私をただの使用人とほとんど同じ扱いをしているし、私自身も自分のことを藍家に名前を連ねているだけの女にすぎないと思っている。何も望まないから、もう放っておいてほしい。
「私が家を離れたらお姉様とも離れることになりますね……とっても寂しいです」
「そうですか。では、父様のところへ行ってくるので。これで」
これ以上の会話は無駄だ。早く厨に食材を置いて父のところへ行った方がいい。遅いと叱られるのは目に見えている。
「待って」
横を通り過ぎようとしたら、腕を掴まれた。
「私も今から正房に戻りますし、お姉様も一緒に行きましょうよ」
ぐいと引かれて正房の方へと引っ張られていく。
「ちょっと!」
桃春に力で負けるはずはないのだが、抱えている荷物のせいでうまく振りほどけない。じたばたとしているうちに無理矢理連れられ、あっという間に正房の入口近くまでやってきてしまった。
肩に下げた食材の入った麻袋が骨に食い込んで痛い。せめて袋を持ち直したい。握られた彼女の手をどけようとすると、桃春がくるりと振り返った。
にっこりと笑う顔に嫌な予感がした。
「ああ、お姉様。その荷物とっても重かったのでは? 気づかなくてごめんなさい。私も少しお手伝いするわ」
「え……は?」
言うやいなや、ぐっと肩から荷物を奪われた。
桃春は今、裾の長い裙子を着ている。全くもって労働に適した格好ではない。そして彼女は箸より重い物を持ったことのない、生粋のお嬢様だ。私でも頑張らないと持ち上げられない程の麻袋を持って歩こうとすると、当然よたつく。
桃春は数歩歩いた後、お約束のように裾を踏んづけ、前のめりに転びそうになった。
「あっ、桃春!」
顔から倒れそうな格好の桃春を支えようと手を出した。支えられると思ったのだが、一瞬足元がふわりと浮き、身体の体勢を崩してしまった。
まずい、これは。
結果、たたらを踏んで桃春と私は正房の食堂に転がりこんだ。
「きゃぁ! 桃春!」
入口近くに座っていた母が転んだ桃春を見て悲鳴を上げた。周囲に控えていた使用人たちが慌てて私達に駆け寄ってくる。
「桃春、一体どうしたんだ」
奥に座っていた父が驚いたように椅子から腰を上げた。酒が入っているのか、頬が少し赤い。
私と一緒に床に転んで伏していた桃春が俯いていた顔を上げた。
「ぐすっ、お父様ぁ……」
泣いてる?
桃春が袖で目元を拭いながら、よろよろと立ち上がる。そのときまだ自分が桃春の服を掴んでいたことに気づいて、急いで手を離した。
「お、お姉様が……私に荷物を持てって、無理矢理渡してきて……持てないって言ったのにぃ……」
「ああ桃春、かわいそうに。こちらへおいで」
桃春が父の元へ駆け寄る。父の腕にひしとしがみつくと肩を震わせた。
私の側に立っていた母が怒鳴る。
「またお前が桃春を虐めたのね!! 後宮入りも間近の桃春が怪我でもしたらどうしてくれるのよ!!」
完全に嵌められた。
最近は桃春と顔を合わせることも滅多になかったから、あけすけな嘘や虐められたとでっちあげられることもなかった。だから油断してしまった。
多分、桃春は私を転ばせるために異術を使った。
桃春の異術は風を操ることだ。私の足元に小さく風を起こして、転ぶように仕向けたのだ。
そんなことは知らない母は、当然怒る。
「まただんまり!? 私にはお前が桃春の服を握って引き倒していたように見えたわよ!」
そもそも、持てる者は持たざる者への配慮を、が異術者の基本姿勢である。嫌がらせに使うなんて以ての外のはずなんだけどな、と心の中で呟いておく。
「あの子が荷物を持つと言ってその後すぐ転んだので支えようとしました」
「なんですって!? 桃春が嘘をついているとでも言いたいの!?」
甲高い母の声が怒りで震える。ここまでくると焼け石に水だ。
母は顔を歪めると、卓子に置いていた湯呑を私に投げつけた。腕に湯呑が当たって服に茶色い染みがじわじわと広がっていく。ああ、冷めた茶だったからよかった。火傷にはならなさそうだ。
「この能無し役立たずが!」
「やめなさい、胡恵」
父が桃春を腕に抱いたまま、母の名を呼ぶ。母は顔を歪めて私を更に睨む。
「でも腹が立つわ! この子、どうせかわいい桃春を妬んで虐めたんだわ!」
「だとしても、こんな能無しに構うのはもうよしなさい。時間の無駄だ」
父は冷え切った目で私を見やると、俯いたままの桃春の頭を撫でた。
「桃春、怪我はしていないのだね?」
「ぐすっ……はい。大丈夫です、お父様」
「それはよかった。お前の健康と幸せが私達の一番だからね」
俯いていた桃春が僅かに顔を上げた。父の腕の隙間から、ちらりと目が覗く。弓なりに曲がった口元、私を馬鹿にするように細められた目。声なんて聞かなくてもあの子が言いたいことはわかる。多分、ざまあみろ、とかそんな感じだ。腹が立つ。
「柊月、お前にちょうど用があった。そのまま聞きなさい。桃春も、話がある」
父が私を見る。湯呑が当たったところが痛む。濡れたまま床に座った状態で聞けというのか。戸口に近いこともあって冷気で身体が震える。
「お前を桃春の侍女として後宮へ入れることとなった」
「……え?」
「は? お父様? どういうこと?」
思わず声が出た。桃春も初耳だったようで、目を丸くして勢いよく顔を上げた。さっきまで泣いてたんじゃないのか、とつっこみたいところだが、私もそれどころではなかった。
「後宮での桃春の世話係として侍女を三名つけるが、そのうちのひとりを柊月にすることになった。柊月、桃春を主人とし、後宮で桃春の身の回りの世話をするのだ」
「待ってお父様! 私聞いてないわ!」
私が何か言うより早く、桃春が声を上げる。
「なんで無術者のお姉様の面倒を私が引き受けなきゃいけないんですの!? 別の人にしてください! お姉様は家で今まで通り雑用でもやらせておけばいいじゃないですか!」
「落ち着きなさい、桃春」
「でも……!」
私そっちのけで桃春が駄々をこねる。
私自身は後宮であれ桃春の侍女であれ、この家を出ることができるというのはとても魅力的な話だった。閉鎖的な藍家に閉じ込められっぱなしより、後宮で働けた方が幾分マシだ。
優しい顔で父が桃春の手を取る。
「もし柊月が使えないと思ったら、お前の判断で解雇しなさい」
「解雇……?」
「そうだ。そうすれば柊月は後宮から出されて、お前の前には二度と姿を現すことはない。後宮に入った日から、柊月はお前の姉ではない。侍女……つまり使用人だ。好きに判断しなさい」
これは……。
父の意図するところを理解して、私は口を結んだ。少し遅れて、桃春もああと呟いて口角を上げた。
「わかったわ、お父様。お姉様が使えなかったら、仕方ないけれど、解雇するようにいたしますわ」
使えなかったら解雇するんじゃない。多分これは早々に解雇される。
こんなの体のいい厄介払いにすぎない。そして両親は解雇された後の私を藍家に戻さないつもりだ。使用人という体をとって、私という存在を都合よく家から追い出そうとしている。
それってなんて――――嬉しい報せだろう。
このまま喜びで走り回りたい気分だ。
口角が上がらないよう、精一杯真面目な顔を取り繕う。
私はこの時を待っていたのだ。
今までこの生活から抜け出そうと、脱走すること数知れず。その度に連れ戻され、しこたま叱られ殴られてきた。
無賃で働かせることのできる、使い勝手のいい娘。両親は私を使用人か、それ以下にしか考えていない。お金のない藍家に、使用人は最低限しかいないからだ。
弟の禎彰ですから、金がかかるからと成人するまで分家で育てられている。財政の厳しい藍家では弟の教育費すら惜しいのだ。
桃春が無事後宮入りすれば、外廷よりたんまり給金が入る。よって私のような不要者をわざわざ手元に置いておく必要もなくなったのだろう。
望むところだ。家から出れるならなんだっていい。そのためにこれまで我慢してきたのだ。これで藍家のしがらみから抜け出せるなら、こんな幸せなことはない。
「――わかりました。桃春の侍女として励みます」
真面目なふりをして私が答えると、父はふんと鼻を鳴らした。母と桃春は嘲笑うようにこちらを見下ろしていた。