第8話 『天球』にて4 =三羽の小鳥が意味するものは=
練習棟には現在、僕と君の二人だけが残り、個人練習を続けている。
あれからしばらく、三人それぞれ練習にいそしんでいたのだが、内線電話による呼び出しが入り、美沙子は本館へ戻っていったのだ。
僕はもう少し練習をしたかったので部屋に残り、君は自分の宿泊棟に戻るには早い時間だということで再びピアノを弾き始めた。
入口にある、室内楽の練習も可能な応接スペースには、『TSUKASA』が提供しているアップライトピアノが設置されている。そのため、その部屋は君が使い、奥にある寝室2部屋を僕と美沙子のそれぞれが使用していた。
先ほどから届いていたピアノの音が止まった。
おそらく君が休憩に入ったのだろう。
折角の再会なのに、会話らしい会話を交わしていないことに気づいた僕は、久々に話でもしようかと思い、ヴァイオリンをケースにしまった。
応接スペースへ続く扉を開け、君の姿を探す。けれど、そこに君はいなかった。
フワリ──美沙子が練習に使用していた部屋から、心地よい風が流れ込んできた。
おそらく君は今、そこにいるのだろう。
開け放たれていた扉の奥を覗き込み、僕はすぐに目的の人物を見つけた。
君は窓枠に腰掛け、熱心に外の様子を眺めているようだ。
開かれた窓から新鮮な空気を迎え入れ、白いレースのカーテンがフワリフワリと風に舞う。
君の薄紅色のブラウスが森の緑に映え、そこだけがくっきりと浮き上がっているように見えた。
その光景は、母が時折趣味で作るシャドーボックスの世界に似ている。
君を飾り立てる背景には草木が生い茂り、葉の隙間から覗く空は青く高い。
木漏れ日から射す光の色は、既に白から黄色味を帯びた橙へと変わり、随分長い時間を練習に費やしていたことに気づく。
日没の時間帯が、刻一刻と迫っているようだ。
「紅ちゃんは、休憩中なの?」
外を眺めていた君は僕の声に振り返ると、ニコリと笑って手招きする。
「克己くん、見て。あそこ。鳥がいるんだ」
目を凝らすと、小さな鳥が二羽、木の根元で仲良く遊んでいた。
その小鳥の様子は、君と美沙子が合奏していたときの光景と重なった。
「なんだかあの二羽の鳥、紅ちゃんと美沙ちゃんみたいだね」
僕がそう伝えると、君は嬉しそうに笑った。
「それは嬉しいな。わたしは美沙子と会ってから、音楽がもっと楽しくなった。一人で弾くピアノも勿論好きだ。でも友達と奏でると『音の世界』はもっと広がって、とても自由で幸せな気分になれる」
弦楽器は複数での演奏ができるので、仲間との連帯感を楽しむことができる。
けれど、君が弾くのはピアノ。そのひとつだけで、オーケストラに匹敵する音色を生み出すと言われる楽器だ。
アンサンブルの機会がなければ、独りで経験を積む──孤独の世界。
君は、美沙子と出会うことによって、仲間と曲を歌い上げる喜びを知ったのだろう。
二人の間に結ばれているのは単なる友情だけでなく、音楽による深い絆もあることが、その言葉の端々から伝わる。
美沙子の今日の演奏は、以前聴いたときとは違って、他者を圧倒する演奏ではなく、どこか温かみを宿していた。
友達である君と、共に奏でる楽しさを知った美沙子は、その音色を変えていったのかもしれない。
幸福感が宿ったヴァイオリンの音色は深みを増し、その音を耳にした者に、安らぎを与えるようになっていた。
きっと二人は、自分のためだけではなくお互いのために、その音色を奏でているのだと思う。
二人の関係を改めて知った僕は、美沙子のことを羨ましいと、再び思った。
「僕──何年か前に美沙ちゃんの演奏を聴いたことがあるんだ。その時の演奏は圧倒的で……少しだけ──怖かった。でも今日、君との演奏で聴いた音色は、そのときとは違って、なんて言うか……」
僕の言葉が途切れたあとを、君が補完して繋ぐ。
「──温かみを感じたんだろう? 美沙子の音色は、確かに変わった」
君の言葉に、僕は静かに頷いた。
「お互いを高めあえる──そんな友達ができたことが、わたしはとても嬉しいんだ」
君は輝く笑顔を見せると、先ほどの鳥がいた木の根元に視線を移す。
その二羽の鳥のもとに、新たな一羽が舞い降りた。
驚いた二羽はビクッとして跳び上がり、そのあと「驚かせるな」と新参の鳥に注意をし、今度は三羽で楽しく話し始めているように見えた。
「最初にいた二羽が美沙子とわたしなら、いま来た鳥は──葵衣だな」
「葵衣?」
初めて耳にする名前に、僕は首を傾げた。
すると君は、鳥から僕へと視線を移し、太陽のように笑った。
「そう! わたしと美沙子の、仲良しだ」
次話
『天球』にて5 =本当の音色を聴かせて=
の予定。(小学生時代、最終話になります)