第7話 『天球』にて3 =「何のために、弾いているの?」=
『天球』の森の奥。
戸建ての宿泊棟で、君がピアノの前に座り、美沙子はその横に立ってヴァイオリンを奏でている。
仲睦まじげに合奏する二人の様子を、僕は近くのソファに腰掛けながら眺めていた。
この少女が月ヶ瀬美沙子だったのだ──あんなに演奏が気になっていた人物だったはずなのに、僕は先ほど彼女と出会ったロビーで、本人だと気づくことさえできなかった。
その言動もあってか、美沙子はとても幼く見えた。しかも、彼女が演奏時に見せた威圧感は、まったく感じられなかったのだ。
だから、どこかで会ったような気がすると思いながらも、僕は彼女だとわからなかった。
…
遡ること15分ほど前。
僕たち三人のいる場所まで戻ってきた祖父母は二人の少女に挨拶をすると、その後ホテルオーナーである葛城夫妻に僕を紹介してくれた。
葛城夫妻は、美沙子の母方の祖父母だ。
だから、偶然にも一緒にいた僕達は、それぞれの身内から、お互いを正式に紹介されることになった。
お互いがヴァイオリンを習い、最終日に演奏をする予定だったこともあり、子供同士で仲良く練習したらどうかと勧められた僕は、その提案に従った。
丁度練習に行く途中だった君と美沙子の二人が、僕を案内するかたちで、子供三人で練習棟へ向かったのだ。
僕たちは、演奏会の会場であるチャペル『天球館』の前を通り、森の中へ続く小径を進む。
しばらく歩いていくと右手にガゼヴォが見え、その東屋の下で練習をするフルート奏者の姿が目に入った。
耳を澄ますと、森の奥からヴァイオリンの音色が風にのり、ここまで運ばれてくる。
祖父母と共に宿泊する予定のホテル本館とは違い、この森の中は楽器のさざめきで溢れていた。
『クラシックの夕べ』に参加する音楽家たちが、それぞれの宿泊棟で練習に励んでいるのだろう。
その道すがら、美沙子は君と腕を組み、僕に色々と質問をしてきた。
先生は誰?
ヴァイオリンは何年習っているの?
そして、最後に美沙子がした質問は、
『何のために、弾いているの?』
だった。
まだ僕には、明確な目的がない。
いつか目標ができた時。弾く意味を見つけた時──いつか訪れるその時のために、練習を続けていると言っても過言ではない。
明確な答えが出せなかった僕は、「今はただ、音を楽しむために弾いている」と回答した。
上手か下手かは関係なく、ただ好きだから弾いているというのが現状の僕だ。
美沙子は僕の言葉を聞くと「楽しく弾けるのはいいことね」と呟く。
その言い方が気になった僕は「美沙ちゃんは、楽しくないの?」と口にする。
僕の質問に対して、美沙子はフフッと笑ってから、少し誇らし気に胸を張った。
「今はね、楽しいわよ。だって、わたしには紅子がいるから。友達と一緒に弾く音楽が、わたしの一番の幸せ。それがやっと分かったの」
──友と奏でる音楽が一番の幸せ。
美沙子は、幸福感に満ちた眼差しで僕を見上げた。
喜色あふれるその笑顔は、とても満たされているように映り、彼女のことを羨ましいなと思った。
…
少女二人が遊びで簡単な曲を弾いたあと、彼女たちはそれぞれの楽器を歌わせながら、同じ部屋で指慣らしを開始した。
君はハノンを1番から連続で弾き、既に5番までを通しで練習している。
美沙子はスケールの全音階をメジャーとマイナーの両方で鳴らし、1音ですら音を外さない。
僕は二人の隣で、ケースの中に横たわる自分のヴァイオリンを見つめた。
艷やかに光る表板は、深い茶色だ。
ほんの三ヶ月ほど前に、サイズアップしたばかり。僕のヴァイオリンは四分の三の大きさになっていた。
大人が使用するフルサイズまであと少し。
その頃になったら、僕は何か明確な目標を見つけているのだろうか。
無心で願いながら、音を奏でることができていたらいいなと思う。
美沙子は指慣らしを終え、いったんケースにヴァイオリンをおさめてから、自分の個人練習の部屋へと移動する準備をはじめている。
彼女の分数ヴァイオリンは、おそらく二分の一サイズ。
小さいながらも素晴らしい音色を生み出す楽器で、それを使用する美沙子との相性も良いようだ。
僕は弓をケースから取り出し、スクリューを捻ったあと、松脂を馬毛に滑らせた。
時々、弓の先と手元の部分を塗り忘れてしまうことがあるので、今日は特に念入りに塗っていく。
僕の弓の張り方を見ていた美沙子が「克己くん、スクリューを締めすぎだよ?」と一言教えてくれた。
ホースヘアを弓方向に指で押すと、確かに張りすぎていたようで硬い。
美沙子が僕の弓を手にとって、手早く適切な加減に直してくれた。
「わあ! いい弓ね。とても弾きやすそう。弓を張りすぎると、折角の性能が活かせないから勿体ないよ」
そう言ってから美沙子は自分のヴァイオリンケースをつかみ、個室へ移動していった。
ハノンを弾き終えた君にお願いして、僕はラの音をもらう。
A線を最初に調弦し、残り三本の弦も同じように音を整える。
ピアノも年に数回の調律が必要な楽器だが、ヴァイオリンは弾くたびごとに正しい音程に合わせる必要があるので少しだけ準備に手間がかかる。
僕は、その音を整える時間が好きだった。
楽器と対話をしているような気持ちになれるのが、ヴァイオリンとの一体感を味わえるような心地で嬉しかったのだ。
正しい音程に調整をしたあと、僕も美沙子に倣い個室へと移動する。
自分の世界に没頭するように、弓でヴァイオリンを歌わせた。
『天球』の森の中、この音はどこまで響き、広がっていくのだろうか。
次話
『天球』にて4 =三羽の小鳥が意味するものは=
の予定です。