第5話 『天球』にて1 =再会は突然に=
次に君と再会したのは、四年後の夏。
場所は日本の避暑地──大きな湖を臨んだ森の中に佇む、リゾートホテル『天球』の中だった。
このホテルでは毎年、お盆休みの一週間にかけて『クラシックの夕べ』というコンサートが開催されている。
高名な音楽家や将来を嘱望された学生が多数出演する演奏会だが、最終日だけは趣を変え、近隣の学校の子供会や、婦人会のコーラスも参加し、地域活性化を謳った一大イベントになる。
コンサート会場は、ホテル名物の惑星を象ったステンドグラスが飾られた──石造りのチャペル『天球館』。
ホテル名『天球』の元となった天球儀が、この教会のドーム型天井に描かれているのだ。
その教会前の広場では、この最終日に、ホテル内のレストランが誂えた特別メニューが提供される。そのため、食通の間でも定評があり、地産の農産物を紹介する場となる有名な催しのようだ。
僕は、ここ数年──最終日のイベントを含めた数日間を祖父母と共に『天球』で過ごす夏を送っていた。
幼い頃の僕にとって、滞在中の一番の楽しみは勿論、最終日の野外会場での食事だ。
青空の下で食べる料理は日常とは異なって、開放的な気持ちにさせるのだ。
それだけではなく、会場を訪れる観光客の笑顔を見ているだけで、幸せな気分を味わえるのも好きだった。
魔法のような時間を見知らぬ人同士で共有できる時間が嬉しくて、このホテルを訪れる日を指折り数えるようになるのは、毎年決まって梅雨を迎えた頃のこと。
祖父の経営している音楽関連の会社は、この老舗ホテルにたくさんの楽器を提供している。その為、毎年のコンサート期間に、家族で招待されるのが常なのだ。
連日行われるコンサートは、子供の好きな曲や、クラシックに馴染みのない人でも楽しめる曲も演奏され、聴いていてとても楽しい。
成長するにつれて、野外での食事だけではなく、このコンサート鑑賞も僕の楽しみのひとつに加わっていった。
今年の夏の訪問に際し──「最終日に、度胸試しでヴァイオリンを演奏をしてみないか」と祖父に声をかけられた。それは、避暑に訪れる一月ほど前のことだった。
ホテル経営者の葛城氏との会話の中で、お互いの孫の話題が出たそうだ。
その時に、僕がヴァイオリンを習っている話をしたのだと、祖父は言っていた。
どうやら、僕の話を耳にした葛城氏が、今回のコンサートでの演奏に誘ってくれたらしい。
何度となくそのコンサート鑑賞をしてきた僕は、あの舞台に立てるのかと嬉しくなり、自然と背筋が伸びた。
上手な人も、そうでない人も、楽しく参加する最終日。
多少の失敗が許されることも知っている。
だから、『音』を『楽』しんで弾く時間にしようと思った僕は、気負わずに参加をきめた。
後日、知ったのだが、今年は葛城氏の孫にあたる少女も演奏することが決まったそうだ。
その少女の名前は、月ヶ瀬美沙子──
僕は驚いて、もう一度その名前を確認する。
彼女は、神童と持て囃されるヴァイオリニストだ。
僕は、彼女の演奏を知っている。
子供が出すとは到底思えない美しい音色。
次元の違いを見せつけるテクニック。
ステージ上に君臨するかの如き存在感は圧倒的で、初めてその演奏を目の当たりにしたとき、僕は大きな衝撃を受けた。
そう──彼女の演奏が終わった直後、一人で立ち上がることができないほどに。
演奏で失敗するのも、優劣を比べられるのも、正直に言えば怖くない。
けれど、またあの時と同じ気持ちを味わうのが躊躇われ、珍しく気分が塞いでしまう。
憂鬱な気持ちを抱きながらも時は迫り、僕は祖父母と共にホテルに到着した。
ロビーのソファに腰掛け、祖父がチェック・インの手続きをしている間、僕は出された茶請けの菓子に手を伸ばした。
ちょうど、その時のことだ。
「克己……くん? ああ! やっぱり、克己くんだ!」
突然名前を呼ばれたことに驚き、声のした方を慌てて振り返る。
懐かしい薄紅色の記憶が、僕の視界を覆った。
──君だ。
「紅……ちゃん? どうして、ここに?」
まさかの再会に心臓が飛び跳ねた僕は、咄嗟に彼女の名を呼んでしまった。
そのことに気づき、慌てて口籠ったけれど、聞かれてしまったのは間違いない。
「あはは! 三年……いや? 四年越しかな? やっとわたしのこと、名前で呼んでくれたね。今日は記念日だ!」
あの時よりも背が伸びて、大人びた君が笑う。
四年前、海外で過ごした夏休み。
君と数日を一緒に過ごしたけれど、僕は君の名前を一度も呼ぶことができなかった。
なぜ呼べなかったのか、今でもその理由はわからない。おそらく、気恥ずかしかったのではないかと思う。
でも、帰国してから、僕は後悔した。
君を思い出しては「一度だけでも名前を呼べば良かった」と、何度も悔やんだのだ。
──次に会うことができたら、君の名前を呼んでみたい。
そう思って、時々「紅ちゃん」と呼ぶ練習をしていたのが仇となってしまったようだ。
君とのまさかの再会に驚いた僕の口は、練習の成果を遺憾なく発揮し、気づくと──君の名を、自然と紡いでしまったのだから。
次話
『天球』にて2 =初めての友達と新たな少女=
を予定しております。