第44話 華燭の典
『僕があの子を好きになって、あの子も僕を好きになれば、もしも口がぶつかっても、きっと誰からも叱られないんでしょう?』
幼い頃の『僕』が、訊ねる。
──そうだね。
きっと、その通りだ。
『僕』が、嬉しそうに笑った。
『あの子のこと、好き? 僕は大好き。多分、初めて会ったときからずっと──好きだったのかもしれない』
出会った日の、薄紅色の記憶がよみがえる。
──もちろん、僕も大好きだよ。
でもね。いま僕の中にあるこの気持ちは、好きという言葉だけでは足りないんだ。
いつからだろう──その想いが、「愛している」に変わったのは。
『愛している?』
──そう。
とても、とても。
君を思えば、息をするのも狂おしいほどに。
それと同時に、心の奥に暖かな陽だまりも生まれる。
愛している──その言葉を、君に伝えられるだけの、一廉の人間になりたい。
その思いを胸に、幾度の冬を越え──薄紅の花降る春を迎えたのだろう。
…
仄かな白い光がカーテン越しからこぼれ、自分が夢を見ていたことに気がついた。
その内容は思い出せない。けれど、とても優しい時間だったことだけは覚えている。
時差による疲れがまだ残っているのか、椅子に座ったまま、うたた寝をしていたようだ。
僕は壁に掛かった時計の針の位置を確かめる。
──そろそろ君の準備が、完了した頃かもしれない。
…
この数年の間に、君は人の心を揺さぶる音色を奏でるピアニストとして名を馳せ、『世界の柊紅子』と呼ばれるようになっていた。
海外での活躍もめざましく、君の爪弾く音の連なりに敬意を表し『天上の音色』と褒め称えた記事を目にしたこともある。
国外では『Be-Ni』と呼称され、オリエンタルな美しさと炎のような存在感を放つ君の人気は高まるばかり。
いつしか君は、妖艶な佇まいで人々の心を魅了する大人の女性へと変貌を遂げていた。
僕はその間、『TSUKASA』の米国法人部門で研鑽を積みながら大学院でも学び続けた。
以前から予定されていた日本の本社への異動辞令が交付されたのは、ひと月ほど前のこと。
薄紅色の花弁が空に舞う、色鮮やかな季節が再び巡るころ──僕は故郷の地に降り立った。
そして本日、日本へ本帰国してから、ちょうど一週間となる日を迎えたところだ。
ひとり静かに最近の記憶を懐古していたところ、部屋の扉がノックされ、背後から声をかけられる。
「鷹司さま、新婦の柊さまのご準備が整いましたので、これから挙式会場にご案内させていただきます。ご親族の皆さまとご列席の皆さまも既に全員お揃いです」
部屋を出る直前、鏡に映る自分の姿を確認する。
留学で日本を旅立った七年前の、幼さを残す僕の姿はそこにはなかった。
身につけているフロックコートは、落ち着いた彩りのシルバーグレー。
胸元には、君の持つブーケと同じ薄紅色の花が品よく飾られている。
目を閉じて深呼吸をし、肺の中の空気をすべて吐き出した。
春麗らかな今日──僕は君と、永遠の愛を誓う。
控室の扉をくぐり通路へ進む。
君との『約束』を交わす教会へ向かうべく、僕は一歩を踏み出した。
…
案内されたチャペルに入ると、最前列右手の長椅子に、僕の両親と祖父母の姿があった。
母と祖母は留袖姿で髪を結い、父と祖父は黒のモーニングで前を向いている。
左手の長椅子には、祭壇側にひとり分の席をあけて君の母親の姿がみえた。
晴子さんも家紋入りの着物姿で、その目は既に赤く染まっている。
チャペル内の新婦友人席に、美沙子の姿をみつける。
目が合うと、彼女は「おめでとう」と祝いの言葉を送ってくれた。
今の時代にしては珍しく、昨年お見合い結婚をした美沙子は、あとひと月ほどで臨月を迎えるとのこと。
膨らんだお腹を愛しそうに抱え、幸せいっぱいの表情を見せている。
幼い君との出会いから──早、二十余年。
留学間際の空港で交わした『約束』を違えることなく、君と家族になる日を迎えられたことに感慨を覚える。
祭壇の前で、君の訪れを待つ僕の心に、数々の思い出が浮かんでは消えていく。
長かったような、あっという間だったような──けれど、そのすべてが宝物のような濃密な時間だ。
入口近辺が騒がしくなり、新婦の入場を告げるアナウンスが流れた。
チャペルの扉が大きく開かれると、大理石の床に君の靴音が響く。
長いヴェールで顔を隠した君は白いドレスをまとい、父親と腕を組みながらゆっくりと近づいてくる。
…
純白のウェディングドレスには『あなたの色に染まります』という意味合いが含まれていると言う。
婚約をした二年前──ドレス雑誌を眺めていた君が、それに掛けた問いを楽しげに口にした。
「克己くんは、わたしを──どんな色に染めてくれるんだ?」
──と。
僕の心は、君と初めて出会ったときからずっと──君の名の色に、染め変えられたままだ。
その記憶を告白すると、君はなぜか驚いたような表情を見せた。
「もっと詳しく教えてほしい」
そう言って身を乗り出した君は、話の詳細を強請った。
出会った当時の君から受けた鮮烈な印象を語ったあとで、僕は君から出されていた『宿題』 について──「残念だけど、降参だ」と白旗をあげた。
君は「今の話で、出会った日──克己くんも同じ気持ちだったことがわかったから、『宿題』の件は、もういいんだ」と、微笑んでいた。
僕の心を置き去りにして、君はひとりで納得してしまったのだろう。
だから、その『匂い』の真相は、未だもって謎のまま。
「薄紅色に染められた──か。克己くんは、相変わらず可愛いことを言う。わたしに、どうしてほしいんだ?」
そう言って蠱惑的に笑う君の手により、僕の身体はいつの間にか押し倒され、そのまま男女の関係を迫られることになった。
立場が逆だろう──と、当時の僕は大いに慌てた。
その様子を目にした君は、僕からの拒絶だと勘違いしたようで、傷ついたような表情を見せる。
「婚約まで我慢したんだ。そろそろご褒美があっても良くないか? もしも……まだ駄目なら──今日は克己くんから先に、キスをしてほしい──それも……嫌か?」
当たり前だが、嫌な訳ではない。
ただ、歯止めが効かなくなりそうな自分が怖くて、僕から君に積極的に触れることが殆どなかっただけ。
僕は君の望み通り、薄紅色の唇に触れた。
君もそれに応じ、息つぎすらままならないほど求め合った。
その日、君から贈られた接吻は、いつもよりも深く、長く──愛情に満ちたものだったと記憶している。
今後の目処が立つまでは、君に対して無責任なことはできない──と、僕自身が何度も言い聞かせて来たけれど、結納を交わしたことで僕の気も相当緩んでいたのだと思う。
何度も重ねた口づけは、お互いの心に熱を呼ぶと同時に、鎮まることをしらぬ欲も生んだ──結果として──婚約早々、二人は身も心も結ばれるに至ったのだ。
だが、その翌朝枕辺で「昨夜のあれは……たくさんキスをすれば、もしかしたらこうなるかもしれないと期待してのことだった──騙すような卑怯な真似をして……すまなかった」と、目覚めてすぐに君からの謝罪を受けることになる。
女性である君に、そんな行動をさせてしまった自分を、やはり不甲斐なく感じたのは言うまでもない。
「でも……そんな真似をしたのに、克己くんと結ばれたことが、嬉しくてたまらないんだ。こんなわたしで、ごめん。でも──今まで生きてきた中で、一番幸せな時間だった──だから……ありがとう」
そう言って、微笑みながら涙を零した君が、本当に愛しくて──僕は、君をもっともっと大切に──幸せにしたいと、心から思ったのだ。
…
そんなわけで、ヴァージン・ロードを歩いている君も、この場で君の訪れを待つ僕も──残念ながら、二人揃って清い関係とは言い難い。
その日以降──互いの身体を重ねるたびに、僕の心の渇きは癒され、君は──妖しくも美しい女性へと変わっていった。
まるで蝶の羽化を目の当たりにするようで、僕の心は完全に、君という名の檻に囚われてしまったようだ。
思えば──情を交わしあったその頃から、君の演奏は凄味を増していったような気がする。
その出来事以降、ひとつ飛び抜けるような音色を生み出すようになった君は、音楽家としての確固たる地位を築きあげていったのだ。
…
白いレースに覆われた君が、僕の目の前に到着する。
その手を受け取る際──君の父親と目線を合わせ、互いに頷きあった。
義父から託されたのは、単なる君の腕ではなく、これから先の長きにわたる──君の人生すべてなのだと改めて自覚する。
誓いの言葉を交わし、ヴェールを上げたそこには、太陽よりも眩しい笑顔を湛える──君がいた。
次話
『くれなゐの初花染めの色深く』
となります。







