第42話 出立の日2 =涙の味=
空港に到着し、利用する航空会社の指定されたチェックインカウンターに向かう。
預け入れする大型荷物はないので、チケット発券後に受付はすぐに終わった。
母と晴子さんが事前に約束していた待ち合わせ場所まで歩いていくと、柊母娘の姿はすぐに見つかった。
母親二人は君と僕に気を遣ったのか、会って早々に「私たちはお茶をしているから、二人で一緒にデートでもしてきたら?──とは言っても、一時間くらいしかないんだけど……」と口にする。
デート──所謂、恋人同士の時間を僕と過ごすことについて、君はどう思っているのだろう。
本当に付き合っているのか、突然わからなくなってしまったこの状況。
自分に自信がないのは、いつものことだけれど、二人の関係をはっきりと確かめたい。
母に手荷物用の小型トランクを預け、ヴァイオリンケースのみを自分で背負う。
パスポートや財布、それからスマートフォンは、コートの胸ポケットに入れてある。だから身一つで、このまますぐにでも出かけることは可能だ。
母と晴子さんが見ているにも関わらず、僕は君に向かって手を伸ばした。
──君が、この手を取ってくれなかったら?
そう思いはするが、顔には出さない。
多分このとき僕は、緊張のあまり感情の読み取れない表情になっていたのだと思う。
なぜか君は、僕の手に触れることを躊躇っているようだ。
その態度に、僕の身体が強張る。
けれど、その張り詰めた気持ちをおくびにも出さず、僕は君の行動を見守った。
僕の手をしばし見つめたあと、君はやっと──手を重ねてくれた。
僕のトランクを持った母と晴子さんも、これからお茶に向かうようだ。
「行っていらっしゃい。二人とも、あとで出発ロビーのところで待ち合わせしましょう。克己は紅子ちゃんのこと、しっかりエスコートするのよ」
「克己くん。あなたの準備が整うまでは、暴走するなって、この子には何度も言い聞かせていたの。だから色々と我慢していたと思うのよ──紅子、今日は、克己くんに迷惑をかけない範囲で甘えていらっしゃい」
母親と別行動を開始し、僕たちは空港の中をゆっくりと歩いた。
渡航準備も忙しく、卒業してからもなかなか君と会うことができなかった。
そういえばこの一年──お互いの誕生日も、それぞれが別々の理由で国外に出ていたため、一緒に祝っていなかったことにも改めて気づく。
プレゼントさえ渡していないとは、自分の体たらくぶりには溜め息しか出ない。
珍しく大人しくしている君の様子も気になったけれど、先ほど──手を繋ぐ直前、君が見せたあの微妙な『間』──あれは何だったのだろう。
タクシーのなかで過ぎった不吉な考えが浮かび、僕は頭を振ってから、君の手を引き寄せた。
なんと言って、話しかけよう。
俯いたまま、一言も喋らない君の様子も僕の不安に拍車をかける。
悩んでいても仕方がない。
意を決した僕は、繋いだ手に力を入れ、君に声をかけた。
「紅ちゃん、これは『兄妹ごっこ』じゃないつもりなんだけど、このままずっと──手を繋いでいても……いいかな?」
僕の言葉に驚いたように君が顔を上げた。けれど、なぜかすぐに顔を隠してしまう。
そういえば、少しだけ君の瞼が腫れているような気もする。
どうしたのだろうと思って、質問しようとしたところ──君は、下を向いたままの姿勢で、静かに言葉を発した。
「克己くん。『匂い』についての回答延長したときに、もらった権利──いま、使ってもいいか? わたしのお願いを何でも聞いてくれるっていう……あの……」
いま、この場でその話題が出るとは思わなかった。
まだその回答は見つかっていないので、無期限延長状態になっているのだ。
もしも、いま君に「手を離して欲しい」と言われたらどうしようか。
そんな不安が掠めるけれど、ポーカーフェイスで「いいよ。約束だったね」と言えた自分に安堵する。
君は頷くと、人目を避けるように、静かな場所を探し歩いていく。
空港内の検疫所の近く──人も疎らな一角で立ち止まった君は、俯いたまま小さな声で告げた。
「克己くん、少し……手を離してくれ……──」
想像通りの言葉が君の口から放たれ、僕は声さえ出せなかった──力が抜け落ちた瞬間、右手から君の温もりが離れていく。
周囲の人が見たら、僕は今にも泣きそうな顔をしているのかもしれない。
「紅ちゃん……ごめん。でも今日だけは、やっぱり手を離したくない。もう少しだけ、僕の隣に……いてくれないかな?」
我ながら女々しいとは思うけれど、僕は君と手を繋いでいたかった。たとえ、恋人同士のそれではなくとも。
「駄目だ。だって、そうしたらわたしの願いを叶えてもらえないだろう?」
君は困った顔を見せ、言葉をつづける。
「克己くん、お願いだ。両腕を少し、こうやって広げてくれ」
──腕を?
君の言葉とその動作に連動し、僕は反射的に両腕を少し浮かせた。
その時だった。
「え!? ちょっと──紅ちゃん?」
君の両腕がこちらに伸びてきたかと思った瞬間、その手が僕の身体を包んだのだ。
「克己くん、つぎはその腕を、わたしの背中に回して。そう──我慢していたけど、本当はずっとこうしたかった。克己くんが照れ屋なのは知っている。でも、今日くらいは、わたしの我が儘を許してくれてもいいだろう?」
そう言って、君は僕の胸に顔を埋めたまま動かなくなってしまった。
「克己くんの……匂いがする」
君が呟いたあと、洟をすする音が耳に届いた。
「紅ちゃん? 泣いてるの? え!? どうして?」
先ほど、君の瞼が腫れていると感じたのは、もしかして──泣いていたから……なのだろうか?
「どうしてって──二人の予定はすれ違ってばかりで、ずっと会えなかったし。でも、克己くんの将来にとって大切な時期だったから、我が儘を言わないようにしていたんだ。だけど、これからは、もっと遠くに行って、なかなか会えなくなるのに、克己くんはまったく平気そうにしているし。だから、もう『妹』に戻されたのかと思っていたけど……でも克己くんはまたさっきから『男の人』みたいなことを言うしで──わたしもよくわからないが──無性に腹が立つけど、嬉しくて、悲しいから離れたくなくて、やっぱり好きだと思う自分にもむしゃくしゃしてっ だから──」
君もずっと不安だったのだろうか。
言っていることは支離滅裂だけれど、だからこそ、複雑な心境が伝わってくる。
君の戸惑う気持ちに、気づくことさえできなかった自分の不甲斐なさが情けない。
将来のことを見据えて行動してきたことで、遠くばかりを見過ぎ、近くにいた君の心を見逃していたのかもしれない。
ひとつのことしか見えなくなるこの性格を、見直していかなくてはいけない。
せめて、何よりも大切な、君の心の変化だけは、気づく大人になりたい。
君が涙目になって、僕を見上げている。
気持ちを飾ることなく、不満も喜びも素直に伝えてくれた君がとても愛しくて、離れがたさが増していく。
「今すぐ……キスがしたい! 克己くんが、人前でくっつくのを嫌がるのもわかってい……──」
半泣きになる君の唇に、僕は人差し指を沿わせ──君が紡ぐ言葉の奔流を静かに堰き止めた。
「ごめん。本当に不甲斐なくて。だけど──さっきの『お願い』は、また別のことに使ってほしい」
「……やっぱり、駄目──なのか? 人前だから?」
君は意気消沈した表情を見せた。
「違う。僕も、そうしたいから──これは僕の『お願い』でもあるんだ。だから今は──」
──目を閉じて。
君へと向かう想いが、溢れて止まらなかった。
人目の少ない場所。
学校とは違って、誰も僕たち二人の存在には目を留めていない。
そのことが僕を大胆にさせたのかもしれない。
僕はそのまま、君と唇を重ねた。
啄むように優しく、ただ触れ合うだけの接吻を、何度も交わした。
お互いに目線をあわせると、君は嬉しそうな照れ笑いを見せる。
先ほどからずっと、君は涙目のまま。
いつの間にか鼻先まで、薄っすら紅く染まり始めている。
ただ一緒にいて、手を繋ぐだけで充分だと思っていたのに……。
でも、いまは──もっと触れていたい。
その手に、唇に、自らを重ねれば重ねるほど、こんなにも君を求めて──心が渇いていくのは何故だろう。
君は自分の望みが叶えられたことでホッと安堵し、笑顔のまま僕から離れてしまう。
けれど、君との隙間が広がる現実に、僕の心が耐えられなかった。
自然とこの腕が君に向かって伸び、僕は君の腰を引き寄せた。
自分の身勝手さに、内心自嘲の笑みを洩らすけれど、君をまだ抱き締めていたかった。
──離したくなかったのだ。
僕の行動に、驚いたように目を大きく見開く君。
けれど、その──僕の身勝手さも理解した上で、すべてを許し、包み込むように優しく微笑んでくれたその眼差しが、この胸を更に熱くさせる。
僕の掠れた声が、君の耳元で揺れた。
「ごめん。まだ──足りないみたいだ……君が」
その紅い口が何かを言いかけた。けれど、僕にはそれを聞く余裕すらなく──君の薄紅色をそのまま封じた──再び互いの唇を重ねることで。
そのすべてが欲しかった。
それは浅ましくも純粋な望み。
狂おしい想いは、貪るような接吻へと変わる。
君は抵抗もせずに、僕のその身勝手な行動に応えてくれる。
自分の中に、こんな『欲』が生まれるなんて、思いもしなかった。
その日初めて交わした深い口づけは──君の涙の……味がした。
次話
出立の日3
=誓いの接吻=







