第40話 大人への階段8 =ルール=
君の予想通り、電話は晴子さんからだった。
今年の『天球』滞在中、普段の練習と食事時は、たいてい同性の友人たちと過ごしていた。
だが今日はそれを断り、柊母娘と昼食時間を共に過ごすと決める。
善は急げということで、僕はその昼食の席で、晴子さんに、君との交際を許可してもらいたかったのだ。
僕からその話題を振ったところ、晴子さんは「やっと成就? 意外と長期戦だったわね」と、僕たち二人に向かって言っていた。
その真意はわからなかったけれど、やはり僕の気持ちは筒抜けだったようだ。
何となくではあるけれど、恥ずかしさが募る。
会話の中で「まだ、お祖母ちゃんにはなりたくない」と言われ、それは僕の母が以前口にした科白と同じだったことに気づく。
きっと、どこの親も心配する問題なのだなと思った僕は、晴子さんに安心してもらうために「節度ある交際を心がけますので」と伝えようとした……のだが──君の返答に、晴子さんと僕の呼吸が止まった。
「晴子、馬鹿にするな。わたしにだって人並みには避妊についての知識はある。わたしは克己くんが望めば応じるつもりだが、克己くんだってそんなヘマはしないだろう。だから、晴子は安心していい。二人が大人への階段を登る過程を、父と共に感慨を抱きつつ見守っていてくれ」
僕は、なにかの聞き間違いであることを祈りながら、お茶を一口だけ含んだ。のだが、相当動揺していたようで、気管に流れ込み、激しく咽せてしまう。
晴子さんが心配しながら「克己くん、大丈夫!?」と僕の背中を慌ててさすり、今度は君を見て「紅子! 安心できるわけがないでしょう! 冗談も休み休みに言いなさい!」と叱りつける。
「怒るな、晴子。あくまでも克己くんが望めば、だ! で? どうなんだ? 克己くん」
──待って!
そこで僕に質問を振らないで。
僕だって思春期の男子だ。
興味がないと言えば嘘になるが、晴子さんのいる前で、そんなことは絶対に言えない。
しかも、君の言うような上級者向けの交際は、僕にはまだ時期尚早──はっきり言って無理だ。
心の中で本音が飛びかうのだが、僕の回答を待つ二人からの圧力がものすごい。
しかも母娘で真逆のベクトルの答えを期待しているのが伝わってくる。
「あの、そ……そういうのは、まだ早いというか……けっ……結婚? とか、婚約? とか……そういった世間一般で言うところの大人のルールの上に乗ってからじゃないと……」
蚊の鳴くような声で、奥ゆかしい女性のような回答しかできない。
僕のその本音を聞いた晴子さんは、安堵の色を見せた──が、今度は君が不機嫌になる。
「望まないのか!? つまり──わたしにはそういった女としての魅力がないと!?」
「そんなことないよ! いや……あの……魅力は、その……あると思うよ。でも、まだ僕には、そんな高度なお付き合いの仕方ができないだけであって。君に……無責任なことはしたくないし。紅ちゃんも、もっと自分を大切にしてよ」
なぜ僕は君と、君の母親の前で、こんなにも明け透けな話をしなければならないのだろうか。
羞恥心領域からくる精神的疲労により、その食事中、自分が何を口に運んで咀嚼していたのか、まったく記憶に残っていない。
…
『クラシックの夕べ』が終わり、一週間が経ったころ──君と僕宛に、グループメッセージが入った。
送信者は、海外でのボランティア活動から帰国した美沙子から。
お土産を買ってきたから都合の良いときに皆で会わないか、という主旨の連絡だった。
僕は美沙子に、君との関係が進展したことを報告した。その返信は「制服の第三ボタンを夏冬の制服二種類分で持ってこい」とのことで、早速翌日、月ヶ瀬邸に召集された。
首を傾げながらもその指示に従い、久々に美沙子の自宅を訪問する。今日は玄関先にて月ヶ瀬家の家政婦さんに出迎えられ、美沙子の私室に通された。
既に君も到着していたようで、部屋をのぞくと君が笑顔で手を振っている。
到着早々ではあるが、僕は持参したボタンの入った袋を美沙子に手渡した。
「ちゃんとボタンだけ持ってきたのね。偉いわ、克己くん。はい、じゃあこれ。こっちのボタンと交換よ」
それは僕の物よりも、だいぶ小ぶりの校章入りボタンだった。
「あれ? いま貰ったコレって女の子用……だよね? 美沙ちゃん、これと交換してどうするの?」
「今度は、無知か!」
美沙子の毒舌が早速炸裂するが、まったく意味がわからない。
渡されたボタンの裏を確認すると、そこには『柊紅子』と、君の名前が刻印されていることに気づく。
冬のブレザーに夏のベスト──第三ボタンは動きやすくするために、外して着用している生徒も多い。
美沙子曰く、その部分を密かに交換し、学内のカップルはお互いのボタンを身に付けるという伝統的慣わしが、我が校にはあったようだ。
「克己くんも知らなかったのか。わたしも今日初めて知った。美沙子はやっぱり本当に物知りだな」
君が感心したように言う。
僕もそれに同意して頷くと、美沙子がゲンナリした表情を見せた。
「似た者同士カップルめ! もう! アンタ達が、わたしとは違う星の上で生きているっていうのが、よぉくわかったわよ」
少女二人の会話を耳にしながら、僕は不思議に思って首を傾げた。
「え? でも、それっていいの? だって──」
僕との関係が周囲に知られるのは良くない──そう言っていたのは、美沙子本人だ。
「いいのよ。克己くんがキチンと自覚している今ならね。これまではずっと、自分の気持ちに無自覚だったでしょう? ちゃんと態度で示して、紅子との関係を公言してくれるなら、その方がいいの──周りのためにもよ。その方がみんな……諦めもつくってものよ」
美沙子の言っている言葉の意味は、正直よくわからない。が、僕は君との関係を隠す気はまったくなかったので、逆らうつもりもなかった。
「それにね、ボタンを交換しておけば、高校の卒業式で、中学の時のようにボロボロにならずに済むっていう、とっておきの御加護も得られるのよ」
美沙子は楽しそうに笑うと、裁縫箱の中から針を取り出し、僕の渡したボタンを女生徒用のブレザーに早速縫い付けている。
その運針には迷いがなく、美沙子はなかなか器用なことがわかった。
君と僕がその針さばきに見入っていると、あっという間にボタン付けが完成した。
「紅ちゃんのだけつけるの? 僕のは?」
不公平を感じて美沙子に訊ねたところ、美沙子の深い溜め息が返ってきた。
僕に対してと言うよりは、君に対しての無念の息に聞こえる。
「だって紅子ったら『ボタンを外して来い』って言ったのに、ブレザーごと持ってくるのよ? ボタンを外せって、ハサミを渡したら──今度は制服を切っちゃうんだもの! いま、そこを隠しつつボタンを取り付けたの。克己くんは、ボタンくらい自分で付けられるでしょう? 中学の時の家庭科で作ったクロスステッチの大作、未だに『中2 鷹司克己作』って名前入りで家庭科室の展示ケース内に飾られているくらいなんだから」
自宅に戻ってから、中学時代まで使用していた家庭科の裁縫セットを押し入れの奥から取り出し、君のボタンを縫い付けた。
恥ずかしいような、嬉しいような、そんな不思議な気分だ。
もしかしたら付けている最中は、頬が緩んでいたかもしれない。
…
美沙子の言う通り、そのボタンを交換してよかったと心底思ったのは、高校の卒業式当日だった。
どうやら、特定の交際相手のいる卒業生のボタンは奪ってはいけないという暗黙のルールが生徒間であるようだ。
高校の卒業式の平和さを改めて実感することになったのは、この日から一年と数ヶ月後の三月頭──初春のことだった。
次話
出立の日1
=「エア彼女?」=







