第4話 出会いの色4 =指への御礼と甘酸っぱいドーナツ=
昨夜聴いた君のピアノ演奏は、驚くほど素晴らしかった。
君の母親は、音楽大学でピアノを教えていると聞いている。
普段から良い音に触れることで、君は無意識のうちに、人の心を掴む音色の出し方を心得ているのかもしれない。
単なる僕の感想だが、あながち間違っていない気もする。
とても習いたてとは思えない、魂のこもった演奏を披露してくれた君に、僕は惜しみない拍手をおくった。
君は座っていた椅子から降りると、皆に向かってお辞儀をし、そのあと自分の小さな指に唇を押し当てていた。
何をしているのかと質問した僕に、「楽しく弾けた御礼に、指に『ありがとう』をしている」と、君は笑顔で教えてくれた。
僕は自分の指先をジッと見つめる。
この指も、音を奏でていることに気づいたからだ。
僕が弾いているのはヴァイオリン。
習ってから2年になるが、僕にはまだ、誰かの心を揺さぶるような演奏はできない。
筋はいい、と言われたことは何度かある。けれど、それは両親に対するお世辞のような気もする。
僕は、楽器を弾くのが好きだ。
色々な音を組み合わせるだけで、何通りもの曲になるのが楽しくて、旋律を生み出すこと自体が楽しい。
上手になりたいというよりは、たくさんの曲に出逢いたくて続けているレッスンだ。
僕の気持ちを感じ取ったのか、ヴァイオリンの先生は無理強いすることなく、丁寧に根気よく教えてくれる。
両親の友人であるヴァイオリンの先生は「いつか目標ができたときに花開けるよう、今は音を楽しんで、ヴァイオリンをもっと好きになってくれたら嬉しい」と言っていた。
弾きたいと強く願ったとき、その力を発揮できたらいいな、とは思う。けれど、そんな日が本当に訪れるのか、このときの僕にはわからずにいた。
誰もが心を奪われるような、そんな音色を弾いてみたいかと問われたら、音楽家であれば「勿論」と答えるのだろう。だけど、僕は、即答できずにいたから──。
そう思いつつも、上手に演奏できれば、先生も両親も喜んでくれることは知っている。
でも、それは僕の心が求めているものとは少しだけ、違うような気がするのだ。
ヴァイオリン・スタジオに通っている年上の生徒たちは、コンクールへの出場を目標とした人が多かった。
そのコンクールで入賞すれば、指導する先生の評価にもつながるらしい。だから、大きな目的もなく、ただ弾きたいというだけで、レッスンを続けてもいいものなのかと先生に相談したこともある。
「一曲を仕上げるためには根気強く努力することが大切だ。でも、その努力を楽しいと感じるのなら、続けてごらん。今はまだわからないかもしれない──だけどね、時間が経ったとき、ひとつのことに打ち込んだ経験が、必ず自信にかわる日が来る。いつか、無心で願うほどの目標ができたとき、それが原動力になることだってあるんだ。だから、君にもそんな目標が見つかることを願っているよ──音楽に関わらず、それはどんな分野でもいいんだ」
先生が気遣ってくれた言葉は、今でも僕の中にある。
無心で願う──相反するような言葉だけれど、いつかその言葉の意味を理解できる日が、僕にもやって来るのだろうか?
今の僕には、まだ、よく分からない。
…
翌日は、父の別荘に柊一家を招待していた。
今日は、別荘近くにある遊園地で遊ぶ予定になっていたのだが、その計画は急遽変更することになった。
君が大好きだと言って写真を見せてくれたシャチのショー。そのショーに興味を覚えた僕と、僕に見せたいという君の意見を、両家の大人たちが汲んでくれたから。
僕たちは車でメキシコ方面へと南下し、海に隣接するテーマパークへ向かうことになった。
駐車場が混雑する前に到着し、遊園地のスペースやアスレチックで遊ぶ。
たくさんの家族連れがいたけれど、時間の流れは緩やかで、急いで歩く人もいない。
人間だけではなく、フラミンゴや海亀やペンギンも寛いだ様子だった。
君が僕に手を差しだし、僕は君と手を繋ぐ。
両親達は「仲良しで、本当の兄妹みたいだ」と言って、僕たちの姿を写真におさめた。
本当の妹がいたら、毎日こんなに楽しい時間が過ごせるのかもしれない。君がずっと妹でいてくれたらいいのに──と、僕は繋いだ手に力を加えた。
時間を確認した大人たちが移動を開始する。
君が大好きだと教えてくれたショーの開始まで、もう間近。入場待ちの列ができるので、そこに並び開場を待つのだ。
開始15分前。スタジアム席に進むと、左手には巨大な半円型のプールが見えた。
地表より上には分厚いガラスの仕切りが埋められ、プールの中の様子が鮮明に見える。
このプールを囲むように設置された席は数十段にも及ぶ階段状で、太陽の光に照らされて銀色の輝きを放っていた。
僕と君は父親二人と一緒に、前方にあるソークゾーンに座った。ここに座るとビショ濡れになる可能性もあるらしい。
そのための注意書きだなのだと柊夫妻が教えてくれ、母親二人は合羽を購入して羽織ると、貴重品をその中にしまい込み、少し後ろの席についた。
ショーが始まる合図に、観客席の熱気が増す。
何度も見に来ている人たちなのだろう。シャチが登場する直前の音楽が低音で流れると、子供も大人も皆同じ動きをして手を使って踊り、最後にシャチの名前を口ずさむ。
君はそれを真似、僕の目はプールの中に釘付けだ。
突如、スタジアム右手から歓声が上がった。
隠れていた二頭のシャチが、急浮上して大きく跳ね上がり、水柱を激しく作りながら水中に潜っていったのだ。
言葉も出せずにその様子を見ていた僕の目の前に、今度は別のシャチの巨大な尾がザバッと現れた。
それと同時に、塩辛い水が土砂降りの雨のように降り注ぎ、目を開けていることさえできない。
一度ではなく、二度三度と、シャチはプールの水を観客席にかけてまわる。
周囲を見渡すと、驚いて泣いている赤ん坊や、笑い転げて楽しんでいる大人たち、茫然としている子に、興奮している子供と、それぞれの反応が楽しめた。
下着までびしょ濡れになる事態は想定外で、僕は驚いて固まってしまったけれど、君は「もう一回!」と人差し指を立てて、もう一度同じショーを見たいとせがみ、父親を困らせていた。
結局、その後の予定もあり午前中のショーを見た僕たちは、車に揺られながら海沿いを北上することになった。
途中で、美味しいドーナツ屋さんに寄ることになり、軽めのランチにする。
君はずっと「もっとシャチ、見たかった」と拗ねていたけれど、そのドーナツを見ると「これ好き」と言って目を輝かせ、あっという間にご機嫌になる。
ドーナツを頬張る君は、心底楽しげな様子で口をモグモグと動かしている。
君が咀嚼する姿は、テレビで見た小動物の食事風景に似ていて、その微笑ましさに僕は目を細めた。
勧められた揚げたてのドーナツを一口齧る。
ふわふわモチモチの食感に、心の中まで温かくなる。
どうやら、このドーナツにもジャグジーと同じ効果があるようだ。
その日食べたドーナツは、温かい気持ちにさせるだけではなく、僕の胸のあたりをなぜか甘酸っぱい気持ちにさせた。
次話、
『天球』にて1 =再会は突然に=
を予定しています。
(小学生中学年に成長します)
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