第39話 大人への階段7 =延長交渉=
語り尽くされた言葉で愛を伝えるよりも、はるかにわかりやすい行動で、君はその心を僕に示してくれた。
その直接的な表現方法が、とても君らしくて──その愛しさに──僕は君の肩をそっと抱きしめた。
…
「紅ちゃん、ごめん。本当は、もっときちんと伝えたかったんだけど、やっぱり僕は、こういうのに慣れていないというか……向いていないみたいだ」
向き不向きの問題ではない気もするが、誰かに自分の恋心を伝えること自体が初めての経験だった。その伝達方法に於いては、きっと大失敗に終わったのだと思う。
でも、結果として、この気持ちは玉砕することなく受け入れてもらえたのだから、それもひとつの人生経験ということで、今日のところは諦めよう。
「克己くんが、こういったことに向いていないのも、不器用なのも、優しいのも、鈍感なところも、全部含めて知ってる。あと……もし慣れていたとしたら、ものすごく嫌だと思った」
最後だけ腕組みをしていた君は、一体どんな想像をしたのだろう。
顰めっ面でそう言った後、少し間を置いてから君はクスリと笑った。
「わたしが機嫌が悪くなると、そうやって困った顔をする──そういう情けないところも、実は知っている。でも、カッコイイところも勿論たくさんあるぞ」
君はそれだけ言うと急に立ち上がり、寝室の扉を開け放った。
向かう先は『天球』の森が見渡せる、ベッドの横にある窓辺。
新鮮な空気を部屋の中に呼び込んだ君は、木製の窓枠に腰掛けてから僕を手招きする。
その呼びかけに応じた僕は、君の後を追った。
目の前に座る君は、先ほどの様子とは打って変わって、真剣な表情をしていた。
「克己くん、答えてくれ。去年から突然、コンクールに参加しはじめたのは、わたしのため? あの日……音楽室で、独りになったとわたしが泣き言を口にしたから? そのせいで諦めた夢は……あるのか?──わたしの自惚れであって欲しいと、何度も思った。答えが知りたくて……わたしなりに何度も何度も考えた。だから本当のことを教えて欲しい。もし違うなら、笑ってくれても構わない。その方が、わたしも安心できる」
君はもしかしたら、晴子さんと同じ心配をしてくれたのだろうか。
だから僕は「半分正解で、半分はハズレ」と返答する。
「『資格』が、欲しかったんだ。はっきりと自分で納得できる『資格』が」
僕だって『音の世界』にいる。
それは、以前、君にも伝えたことがある。
けれど、『音の世界』の中心で輝く少女三人とは違って、その世界の片隅で、音を楽しむだけに留めていた過去の自分。
君と同じ世界にいるのだと言ったからには、せめて美沙子と同じ場所に立ちたかった。
それは僕にとっては、単なる自己満足。
けれど、それと同時に、ヴァイオリンに真剣に向き合うための好機にもなった。
僕が音楽家としての道を選択しないことは、師事するヴァイオリンの先生も知っていた。
そのことを理解しつつも、それでも丁寧に指導してもらえたことが、この一年の間で僕が積み上げた成果に、間違いなく結びついている。
コンクールで一位入賞を続けることは、一朝一夕で成し遂げられるようなことではない。
ヴァイオリンの師は「小さな頃からの弛まぬ努力と修練が実を結び、花開いたからこその結果だ」と言ってくれた。だが、それだけではないことは重々承知している。
そこにあったのは間違いなく、師からの長きにわたる献身的な指導があったからこそ。
将来の目標に向かって日本を飛び出す前に、師への恩返しとしての側面があったことも、正直に君に告げる。
「晴子さんにも同じことを心配してもらったんだ。でも、自分の子供の頃からの目標はブレていないよ。だから、心配しなくても大丈夫。それにこの一年間、コンクールに挑戦したことで得られたものも沢山ある。それは、僕が叶えたいと思っている将来の夢──『TSUKASA』での仕事につながる経験でもあったんだ」
僕の言葉を聞いた君は、少し言い淀みながらもまっすぐに質問をする。
「克己くんは……大学に進んだら、音楽はやめるのか?」
僕は笑いながら、首を横に振った。
「進学を希望している大学では、音楽を専攻していない学生も参加できる本格的なオーケストラや室内楽の活動もあるんだ。だから続けるよ。音楽は僕の生活の一部でもあるから、今更切り離せないしね。それに──これから先もずっと、君と一緒に弾いていきたいから」
君は近い将来、柊紅子という名を、世界に轟かせるピアニストになるだろう。
それは君の言う『匂い』と似た──いや、それよりも確実な、謂わば確定未来。
だから、その君の隣で、共に音色を奏でたいと願うのなら、それ相応のレベルでなくてはいけない。
音を重ねた時にガッカリされたくないという本音も多分に含まれるが、それは男の沽券にもかかわるので言わない。
「克己くん。今……『ずっと一緒に弾いていきたい』って、言ったか? その『ずっと』って、『一生』っていう意味なのか?」
「うん?──そうだね。できればこれからも君と一緒に、また合奏したいと思っているんだけど──個人的に」
この『天球』で開催される『クラシックの夕べ』でも、機会があるのなら、また一緒に弾いてみたい。
君は、難しい顔をして「ずっと? 一生?」とブツブツ繰り返している。
「克己くん、それはつまり──プロポーズ、なのか?」
君は首を傾げて、僕に質問を投げかけた。
「そう。プロポー……ええ!?」
思わず、流れるように肯定しかけてしまい、途中で止まる。
君の今回の質問も、直球だった。
その真っ直ぐさは、変化球なしだ。
わかりやすい──が、返答には困る。
そういう意味が全くなかったと言ったら嘘になるけれど、ただ純粋に君とこれから先も一緒に音を奏でたいと思ったから。でも、それって、つまり潜在意識では、そういった未来を望んでいる……と言うこと……なのだろうか?
「いや、その……それは、気が早いというか。だって、紅ちゃんはこれから世界に出て、そこで色々な人と出会うでしょう? 僕以外を見てから約束しても遅くないんじゃないの?」
どちらかといえば、僕のためというよりは、君のため。早まらないほうがいいのでは……と気遣ったつもりだった。けれど、なぜか君の顔が落胆の色を濃くしていく。
「それを言うなら、克己くんも同じだろう? わたしは、他に目移りすることはないと断言できる。が……そうか、うん、確かに……克己くんは、違うかもしれないな。うん、わかった……一応、覚悟はしておこう」
君のその考えを聞いた僕は、即反論だ。
「ちょっと待って! 覚悟ってなんの覚悟!? ないから! 僕だって、そんな、目移りするなんてこと、絶対にないから!」
何年も何年も、蓋をし続けたけれど、消せなかった気持ちなんだ。
そう簡単には変えることはできないし、もし君が僕から離れて行く未来が訪れたとしても、絶対に忘れることなんてできない。
そもそも僕は、君以外の人間に興味を示したことがなかったことにも気づく。
それに、こうやって仲良く話をしてくれる女の子は、君だけ──いや、美沙子とも話しはするが、あれは女の子というよりは、どちらかというと『影に隠れた権力者』という属性だ。
先ほどの僕の回答を聞いた君が、身を乗り出してくる。
「それは良かった! 克己くんがそう言うのなら、この『匂い』は、どうやら正解だったみたいだ」
君に出された『匂い』についての『宿題』のことを、ここでやっと思い出す。
実は、考えるには考えたのだが、結局答えらしきものさえ発見できていない僕だ。
「僕と初めて会った時に、紅ちゃんが感じた『匂い』って──結局なんだったの? いまだに見当もつかないんだけど」
君は少し考えてから「うーん」と唸る。
「降参か? 若人よ。答えを今すぐ知りたいなら、教えてやらないこともないが」
君は腕組みをしながら、僕に問う。
少しだけ逡巡し、僕は頭を横に振った。
──やっぱり、もう少しだけ自分で考えよう。
「期限の延長は可能? 交渉の余地は?」
僕の言葉に、君は瞳をキラリと輝かせる。
「そうこなくっちゃ! ちなみに、交渉材料は?」
君の言葉に、僕は微笑んだ。
楽しいことを考えているとき、君は本当に生き生きとしているのだ。
その様子を見ているだけで、僕は幸せな気分になれる。
「──君の、望むもので」
僕の言葉に、なぜか君の顔が薄紅色に染まった。
いや、言葉ではなかった──その笑顔を見た瞬間、僕の手が伸び、その頬に触れていたようだ。無意識のうちに。
「克己くん、言ったな?──高くつくぞ? 今すぐには思いつかないが、少し考えてみる。しばらく、保留ってことでいいか?」
「了解。じゃあ、交渉成立だね。回答期限は遠慮なく延長してもらうよ」
会話が終わったところで、寝室のコーヒーテーブル上の内線電話が鳴り始めた。
時計を確認すると、そろそろ正午を回る時間帯だ。
「電話は多分、晴子からじゃないか?──『もう、お昼の時間よ。二人とも』って。今日は克己くんも一緒にお昼を食べに行こう!」
次話
大人への階段8
=ルール=







