第38話 大人への階段6 =涙と笑顔と……それから=
君の表情は更に曇り、掴んでいた僕のシャツから手が離れていく。
前のめりで詰め寄っていた身体が元に戻る反動で、堪えていたのであろう涙が、僕の膝にポタリと落ちた。
「ごめん。もう『宿題』のことは、忘れてくれ──やっぱりあの『匂い』は……わたしの勘違いだったみたいだ」
君が自分自身を納得させるよう、口にした言葉なのだろう。けれど、その真意は掴めない。
無理矢理、笑顔をつくる君。
けれど、止まらぬその涙。
僕から距離を取るため君が離れていくさまは、まるで心に高い壁を建てていくかのように映った。
いま君の手を放したら、その心は永遠に手に入らない。
それは予感──君が言う『匂い』と同じもの。
──そんなの、いやだ!
そう思った瞬間、何も考えられなくなった。
それは咄嗟の行動──頭で考えるよりも早く、身体が動いていた。
この掌が理性を制して、君に向かって伸びていく。
「──紅ちゃんっ 待って!」
僕の出した声の必死さと、突然腕を掴まれたことによる驚きで、君の瞳が見開かれる。
こんな衝動──いままで知らなかった。
僕は君の腕を、情動のままに引き寄せる。
バランスを崩すようにして倒れ込んできた君の身体を──この腕でしっかりと抱きとめる。
「っ克己く──」
「そのままで! ……ごめん……紅ちゃん。でも、今は……顔を上げないで」
僕の名を呼び、この表情を確かめようとした君の動きを、懇願に近い声で封じる。
いま、この至近距離で君の目に見つめられ、その顔を見たら、僕は君に触れたくなってしまう──唇で。
君の顔は、僕の胸の位置にある。
きっとこの早鐘のような鼓動も、君の耳には届いているのだろう。
深呼吸を何度もくり返し、この気持ちの昂りを落ち着けようと努力する。
今から君に、大切な話をするんだ。
それを伝えるのは、きっと今でなくてはならない。
僕はこの一年で、自分を納得させるための『資格』をやっとのことで手に入れた。
今の状態で感情のままに気持ちをぶつけてしまっては、この一年の自分の努力が浅慮なものとして受け取られかねない。
冷静になって自分の気持ちを整理した瞬間──途端に腕の中にいる君の重みを感じることになる。
自分が何をしていたのか改めて気づいた僕は、君の身体から慌てて両腕を浮かせた。
「うっ……うわ! ごめん! そんなつもりは……全然なくてっ」
僕のあまりの慌てぶりに、君が笑い始めた。
泣いているのか笑っているのか、本人でさえもわかっていないようで「あれ、変だな。なんだか……克己くんらしくて……安心して……」と涙を零しながらも、また笑った。
泣き笑いを見せる君が、僕に問う。
「そんなつもりって、どんなつもりだったんだ? 克己くん?」
君の言葉に、僕は口ごもり、なんと答えるべきなのかと挙動不審になる。
「え……と、その、ごめん! あの……無断で、君に触って……申し訳ない」
しどろもどろで声を絞り出すが、自分がしたことのあまりの大胆さに顔がカッと熱くなる。
力任せで無理強いに近い状態で引き寄せ、あまつさえ抵抗できない君を、その意思の確認をとることなく抱き締めてしまったのだ。
女性からしたら恐怖しか覚えない行為だったろう。
君から怒られても……いや、叩かれたとしても仕方のないことを僕はしたのに、君は僕を怖がるでもなく、間近にいるのを嫌がるでもなく、そのまま僕の胸に顔を埋めたままだ。
もしかしたら、怖くて動けないだけなのかもしれない?
そのことに気づいた僕は、一刻も早く君から離れなくてはと更に焦る。
けれど、君からは「ちょっと動けない。今はこのままでいたい」と返される。
僕の心は激しく混乱状態だ。
「ごめん! 怖かったよね。すぐ退くし、何もしないから!」
僕の慌てぶりに、君は首を傾げ、こちらを見上げてくる。
でも、そんな目で──上目遣いで、見つめないでほしい。
君はまったく気にしていないけれど、色々と柔らかな部分も僕の身体に触れているのだ。その事実も、僕の心をより動揺させるのに、ひと役買っている状況だ。
「ごめん、もう無理……ちょっと、このままの体勢は、僕にも色々と不都合があって、その……っ こんなことを言ったら君に軽蔑されるかもしれないけど……あんまり密着していると、僕がちゃんと理性を保っていられるかどうか──」
「? どうして?」
流れるような君の質問に、焦った僕の心が饒舌に語りだす。
緊張したり慌てたりすると口数が増えてしまうのは、僕の昔からの悪い癖だ。
「どうしてって、そりゃ、好きな女の子とこんなふうに密着していたら、誰だってそうなるよね。いまだって冷静になろうと必死なのに。あのね、紅ちゃん、忘れているかもしれないけど、一応、僕も年頃の男だし、いつまでも子供のよう……に……って……?」
──あれ?
僕はいま、何を口走って……?
かなり自分の心情を赤裸々に語ったあと、その内容に気づいた僕は息を呑んだ。
自分がいとも簡単あっさりと口にしてしまった感情は、自分の中で何年にも渡り──知らずに育っていた想い。
僕は慌てて右手で口を抑えたが、告白まがいのことをしてしまった今となっては、時既に遅しだ。
あまりに自然に、当たり前のように口からこぼれてしまった感情──この事態に、僕の中の時間が止まる。
どのくらいの間、沈黙していたのか。混乱の極みすぎて覚えていない。
「う……わっ ちょっ……待って。待って! 今の無し! もっとちゃんと……伝える……予定が……」
僕のあまりの動転ぶりに、君がキョトンとした表情を見せる。
気まずい思いで君の目を見つめた瞬間、君は再び──笑いながら、泣き出した。
僕はどうしたらいいのだろう。
でも、なぜか君はとても嬉しそうで、僕は君のその笑顔を見ているだけで、この上ない喜びを感じてしまうのだ。
目を細め、幸せそうに微笑んだ君が、もとから二人の間になかった距離を更に詰めてくる。
僕の目は、君の薄紅色の唇に釘付けだ。
これ以上近づいては、この心がもたない。
僕は君から逃げるように腰を引いたのだけれど、ソファの背もたれが邪魔をして身動きがまったくとれない。
座ったままの姿勢にて、君に追い詰められる僕。
僕に逃げ場すら与えてくれず、膝の上から攻める君。
この体勢に、おかしな汗が流れそうになる。
君の華やかな顔と悪戯な眼差しが一層近づき、大混乱に陥った僕は──敵前逃亡のごとく、瞼をぎゅっと閉じた。
これ以上、君と密着し続けたら、自分自身がどんな行動に出るのか見当もつかない心境なのだ。
激しい焦りの中、僕は君に許しを請う。
「ほんと……ごめん。紅ちゃん、もう無理。降参だから……許し──」
「しっ そろそろ黙ろうか……克己くん?」
君の有無を言わせぬ口調は、けれど優しく──その囁きに、僕は反射的に従ってしまう。
口を閉じた次の瞬間──柔らかな何かが、僕の唇に重なった。
理解できたのは、不可思議で懐かしいような、その感触だけ。
突然のことに驚き、身体がビクリと跳ね上がる。
それと同時に、君と初めて出会った、あの空港での出来事が走馬灯のように僕の脳裏を過ぎった。
茫然とした心地で瞼をうっすら開けると、僕の目に、君の長い睫毛と眦がぼんやりと映る。
僕の閉じた口を、静かに塞いでいたのは──君の薄紅色の唇。
僕の胸を締め付ける痛みが、甘酸っぱさを伴って急速に膨れあがる。
逃げ場を求めるように喉元まで迫り上がった切なさは、心地の良い幸福感へ姿を変えた。
ほんの数秒の触れ合い。
それだけで、君の心を知るには──充分だった。
離れていく君を名残り惜しく感じ、僕は震える手を君に伸ばした。
その手は君の顔に触れ、親指がその紅い唇をなぞる。
僕の行動に、君は太陽のような笑顔を見せると、再び静かに瞼を閉じた。
その睫毛を飾る水滴は、まるで君自身を彩る光の粒のようだ。
両手で君の頬をそっと包み……今度は僕から──君の薄紅色の唇に──想いを込めた、接吻をおくった。
次話
大人への階段7
=延長交渉=







