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第37話 大人への階段5 =Csárdás(チャルダッシュ)=


 ピアノの前奏が、物語の序章を歌う。

 悲劇なのか喜劇なのか、どちらに向かうのか判別のつかない音色が、部屋の中いっぱいに広がった。


 ヴァイオリンはピアノに誘われるように、その音色の描く世界の奥へ奥へと突き進んでいく。


 暗がりに向かって──君に手を引かれながら。

 その先に待つものの正体を、この目で確かめるために。


          …


 哀愁を帯びた音色でヴァイオリンを響かせ、その調べが室内を満たす。


 二人で爪弾く速さは、背中から伝えられた君の鼓動と同じ。


 この曲は、メインパートを担うヴァイオリン演奏が難曲の部類に入るのはさることながら、ピアノ伴奏も容易ではない。


 双方ともに高度なテクニックを要し、最終章まで互いの音に呼応し続けなければ、途端にバランスが崩れ、不協和音へと変わってしまう恐れもある。

 奏者同士の力量を試される曲と言ってもいい。


 互いの技術だけではなく、奏者と伴奏者の相性、()の取り方や呼吸、すべての音楽的センスが一致しなければ、至高の『Csárdás(チャルダッシュ)』を演奏することは不可能に等しい。



          …



 闇の中を手探りで進むヴァイオリンの足取りは重く、ピアノの妖しげな調べが暗い森の最奥に向かって、僕の心を連れ去ろうとする。


 躊躇(ためら)いの音色を奏でる弦が、突然息を吹き返し、弾けるように流れ出す。

 それはまるで、何かを予兆するような、何かを期待するような、何かを求めるかの如き旋律だった。


 遠目に見えたのは、暗き森の先。

 けれど闇に包まれていたはずの場所から、洩れて届くは、(まばゆ)い光。


 煌々(こうこう)と輝く光の下に、楽しげに踊る人々の姿が見えたような気がした。



 重い足取りが、軽やかな動きに変わる。


 森の深部に早く辿り着きたいと、ヴァイオリンが息せき切って走り出す。


 心音は急速に上がり、その光を目指して森の中を駆け抜ける。


 息が上がりそうなほどに疾走し、たどり着いた場所──そこに広がるのは青空と、人々が笑いあう光景。



 踊りに興じ、食事を楽しみ、言葉を交わす人々の姿があった。



          …



 君と僕の視線が、交わった。

 その途端、君は悪戯(いたずら)なあの微笑みを見せ、僕を挑発するようにピアノの速度を増していく。


「わたしに、ついて来られるか?」


 君から、そう言われたような気がした。


 僕はそれに応えるように、鼻で短く息を吸い上げる──それが合図だった。



 君の音色と、僕の音色。

 そのどれもが互いに負けじと、その速さと、正確さ、そして美しさを競う。


 君も僕も、駆け引きのような遣り取りで音色を重ね、互いを牽制しつつも同時にその旋律を引き立てる。


 僕はその演奏の楽しさに、ますます溺れていった。


 楽しかった。

 只々、楽しかったのだ。


 二人で織りなすメロディは、互いの魂を溶かし合い、いつしかひとつに結ばれていく──そんな陶酔した気持ちを味わうことになるとは……、いや、その予感はあった。


 君が口にした『匂い』の正体。

 それは、この演奏そのものだったのだ。



          …



 心臓破りの坂を一息に登りつめる勢いで、最後まで休むことなく駆け抜けた、僕たちの『Csárdás(チャルダッシュ)』。


 あとから思い返すと、よくぞ音を外さず、飛ばさず、互いの熱にも巻き込まれながら、あれだけの速さで全力疾走できたものだと、我ながら感心するほど。

 まるでサーカスの綱渡りのような合奏だった。


 柊紅子という才能溢れるピアニストが伴奏をしてくれたからこそ、生み出された演奏に違いない。


 僕ひとりの力では到底為し得ないことを、君は魔法のように、いとも簡単に作り上げてみせた。

 やはり君は、世界に羽ばたくに値する音楽家なのだと、改めて確信する。


 君が只管(ひたすら)に、『音の世界』を邁進し続けたからこそ、辿り着けたその境地──僕はそんな君が誇らしい。


 まるで我がことのように、嬉しさが止まらない。



 君が見せる強さも、君が流した涙も、僕にとってはそのすべてが宝物だ。

 今日のこの演奏も忘れえぬ──僕の大切な思い出になるのだろう。



 一緒に演奏してくれた君に、感謝の言葉を伝える。


 けれど、君の目をまともに見られず、僕はその後、無言でヴァイオリンをケースにしまった。


 僕のその様子を訝しんだのだろう。

 君が気遣うように声をかける。


「克己くんは……楽しくなかったのか……?」


 背中から届いた声に、僕は返答する。


「とても……言葉では表せないくらい、楽しかったよ?」


 ……背を向けたままの姿勢で。


「じゃあ、どうして音楽室のときと態度が違うんだ? あの日初めて一緒に弾いてから、二人してこんなに上手になったんだぞ! ここは抱擁し合って、お互いの頑張りを……健闘を称え合うところじゃないのか?」


 ──だから困るんだ。


 もしも今──気持ちが高揚しているこの状態で、君の目に囚われ、その手に触れたら、僕は君を違った意味で抱きしめてしまいたくなる。


 君が言う、健闘をたたえ合う純粋な抱擁ではなく、僕の身勝手な感情が含まれてしまうだろう。

 僕はそれを恐れたのだ。


 ──ごめん。紅ちゃん。

 いまは自分の気持ちと行動に、責任が持てそうもないんだ。


 自制が効かなくなるほどに、僕の心は君を求めている。同時に、とても大切だと思っている。

 だから、君が嫌がることは極力したくない。


 ──だから、いまは触れ合えない。



 心を落ち着けようと、俯いたままの僕。

 僕の心の葛藤を知る由もない君。


「克己くん! こっちを見ろ」


 こちらを向けと言う君は、行動力の人なのだろう。

 僕の目の前に素早く移動すると、そのまま距離を詰めてくる。


 二人の間を隔てるものは、ヴァイオリンケースの置かれた背の低いソファテーブルだけ。


 慌てて後ずさった僕の脹脛(ふくらはぎ)にソファがぶつかり、そのまま勢いよく座面に腰を埋める。

 倒れ込んだ先にはクッションが置かれ、僕の背中を包んだ。


 君はヒラリとテーブルを飛び越え、前屈みになって僕のシャツの布地を掴みあげる。


 もしかしたら、怒っているのかもしれない。


 責めるような君の様子が、ひしひしと伝わってきた。


 けれど──



「わたしは、すごくすごく楽しかった! 克己くんだって、さっきまで、あんなに楽しそうに弾いて……ちゃんと応えてくれたじゃないか。それなのに、どうしてそんな態度で……下を……向くんだ……」



 いつもの君の様子とはどこか違う。

 普段、僕に見せる(ほが)らかな態度ではない。

 切羽詰まったような声音からは、言葉を発するたびに覇気が消えていく。



 君を悲しませたかったわけじゃない。

 ──僕自身の心の状態が、問題だっただけなのに。



 この場に落ちる沈黙に耐えきれず、僕は意を決して顔を上げ、君の双眸を見つめた。


 その瞬間、驚きのあまり僕は両目を見開いた。

 君のその目には、涙が浮かんでいたから。


 あの日以来、見せることのなかった雫は、君の下瞼に溜まり、今にも零れ落ちそうになっていたのだ。



「克己くんは……わたしがあんなことを言ったから、もしかして、ずっと……困っていたのか?──やっぱり『宿題』なんて……出さなければよかった……」





csárdás演奏リンク

高宮あいさんの演奏の素晴らしさはもちろんのこと、ピアノの米津さんも輝いていらっしゃいます。


https://youtu.be/rXd1S2oiaTg


↑曲の解説もついているので是非聴いてみてください(´∀`*)


聴いている側は中毒性があるのですが、演奏側は集中して弾くとかなり疲れるらしいので中毒性はないとは家人の言葉←単に未熟なだけかも?(^◇^;)



■宣伝■


今回のような曲想回は、本編にたくさん出てまいります。

チェロ、ヴァイオリン、ピアノの順で曲想が多いです。

使用曲詳細情報についは、こちら↓の目次にてご確認ください。


『その悪役令嬢、音楽家をめざす!』

〜恋愛音痴でごめんなさい。バイオリンが恋人です〜

https://ncode.syosetu.com/n5653ft/



次話


 大人への階段6

  =涙と笑顔と……それから= 



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『くれなゐの初花染めの色深く』
克己&紅子


↑ 二十余年に渡る純愛の軌跡を描いた
音楽と青春の物語
『その悪役令嬢、音楽家をめざす!』の
登場人物である克己が主人公(ヒロインは紅子)


『氷の花がとけるまで』
志茂塚ゆり様作画


↑『その悪役令嬢、音楽家をめざす!』の
晴夏が準主役として登場
少年の心の成長を描くヒューマンドラマ
志茂塚ゆり様作画



『その悪役令嬢、音楽家をめざす!』
hakeさま作画


↑評価5桁、500万PV突破
筆者の処女作&代表作
ラブコメ✕恋愛✕音楽
=禁断の恋!?
hake様作画
― 新着の感想 ―
[良い点] チャルダッシュはすごい速い曲ですよね(´∀`*) (子どもの頃踊りました笑) 2人とも少しずつ大人に…(//∇//)
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