第36話 大人への階段4 =伝わる、君の鼓動=
自分の滞在する宿泊棟兼練習棟の玄関前に立ったのだが、君が弾いているはずのピアノの音色が聴こえない。
もしかしたら、既に練習を終え、休憩中なのかもしれない。
僕は扉を数回叩いたあと、解錠のために備え付けのプッシュボタンに暗証番号を入力する。
室内に君がいるのは知っている。だが、ノックされても自分からは扉を開けないようにと、事前にお願いしていたのだ。
更に、僕が鍵を開ける合図は、ノックを5回するということも伝えておいた。
訪問者自体いないはずだが、万が一にも不審人物が現れた場合、女の子ひとりでは対処できないだろうと思ってのこと。防犯のための予防策でもある。
君は「心配しすぎだ」と苦笑していたけれど、やはりそこは気を配るべきところだと思ったので、僕は譲らなかった。
扉を開けると室内楽用の居間が目に入る。
案の定、アップライトピアノの前に君の姿はない。
寝室へとつづく引き戸に目を向けると、その扉が中途半端に開いていた。
おそらく君は、そこにいるのだろう。
以前のように、外の景色でも楽しんでいるのかもしれない。
ヴァイオリンケースをテーブルの中央に置いた僕は、半開きになっていた戸を開けた。
窓際に視線を移したのだが、君がいたのはその手前。
クイーンサイズベッドの上だった。
寝台中央で横になってすやすやと寝息を立て、快適そうな表情で微睡んでいる。
そういえば君は一昨日、欧州でのミュージックキャンプを終えて日本に戻ってきたばかり。
滞在していた場所の現地時刻で言えば、いまは深夜三時を回る頃だ。
時差ボケもあって、眠さもピークなのだろう。
僕もサマースクールから帰国した直後は起床時間が早くなっていたことを思い出す。
胃腸も日本の食事時に合わず、食欲不振になったが、それは一週間もすればおさまった。
子供の頃は時差ボケなんて殆ど感じなかったというのに、不思議なものだ。
僕が戻ったことを伝えようと、君の名を何度か呼んだ。けれど、一向に目覚める気配はない。
ベッド脇の椅子を引き寄せ両足で跨ぐ。背もたれを抱えるようにして腰掛けてから、君の寝顔を見下ろした。
このまま寝かしておくべきか、時差ボケ解消のために起こすべきかと、真剣に悩む。
君の閉じられた瞼からは長い睫毛が伸び、少しだけ開いた唇は艶やかで、思わず目が吸い寄せられる。
呼吸で上下する胸元が視界に入ると同時に我に返った僕は、慌てて君から目を逸らす。
あまりに無防備な寝姿に、完全に安心しきっている様子がうかがえた。
いくら幼馴染みとは言っても、ここは異性である僕の部屋。しかも、君と僕以外の人間のいない空間だ。
君にとって僕は、『男性』というカテゴリーに入っていないのかもしれないが──
「紅ちゃん、僕も一応……男なんだよ」
小さな呟きは君の寝息にかき消され、なんとも複雑な気分に見舞われる。
ほぅと溜め息を落とした僕は床に座り直し、ベッドに頬杖をついた。
君の身体から生まれる規則正しい呼吸が、僕の耳を優しく包む。
夢なのか、はたまた現実なのか──風に吹かれた木々が、葉擦れの音を奏ではじめた。
そよそよ、さやさや。
まるで囁くような微かな調べと、君の寝息が重なって、僕の心の中に忍び込んでは染みていく。
しばらくすると、その二つの音の合奏も次第に遠のき、穏やかな時間が訪れた。
いつの間にやら僕自身も『眠りの森』に誘われてしまったようだ。
…
「紅チャン? 君ハ何ヲ──」
シテイルノデショウカ……。
僕は茫然としながらも、必死になって声を紡いだ。けれど、最後まで口にすることはかなわなかった。
抑揚のない音になってしまったのは、自分の目の前で何が起きているのか、理解できなかったから。
目を開けた途端、至近距離──しかも五センチメートルと離れていない場所に、ニコニコと笑う君の顔があったのだ。
「良きかな、良きかな。とても愛らしく、『眠りの森の美女』さながらの克己くんの寝顔を堪能させてもらったぞ。男子の言う『克己姫』の渾名も、言い得て妙だな──いや、これはホントに『ごちそうさま』だ」
僕は凍りついた表情のまま、状況確認を試みる。
君を起こすはずが、いつの間にか僕も──ベッドに突っ伏したまま、うたた寝していた事実が判明だ。
しかも『克己姫』?
男としての威厳のかけらもない呼び名が、僕の知らない界隈にあったなんて……そのこと自体も衝撃だ。
訊けば、君は、先ほど目覚めたばかり。
ベッドの縁に僕を見つけ、横たわったままの姿勢でずっとこの寝顔の観察をしていたのだと言う。
やっとこの状況を理解した僕は、慌てて顔を上げた。
寝顔を食い入るように見られていた恥ずかしさに赤面し、寝言で変なことを口走らなかっただろうかと狼狽もする。
羞恥と動揺が螺旋階段のように渦巻いては押し寄せ、僕の顔は赤くなったり青くなったりと忙しない。
「克己くんがここで寝落ちていたってことは、わたしの寝顔も見ていたんだろう? これでお愛顧だ」
図星をさされ、ウッと言葉に詰まる。
そんな僕を楽しそうに見上げた君は、「よっ」と掛け声をあげながら腹筋を使って起き上がった。
伸びをした君は、今度はベッドの上でストレッチを開始だ。
「ああ、よく寝た。スッキリ爽快だ。なんだか、今なら最高の演奏ができるような──『匂い』がする」
満足げな表情で、君が僕に向かって右手を伸ばす。
その手を引き、ベッドから君を下ろした瞬間──突然僕の背後にまわった君の腕に、身体ごと抱きしめられる。
「……ちょっ 紅ちゃんっ 何してるの!?」
前から抱きつかれなかっただけでも、よしとするべきなのだろう。
流石にそんなことをされたら、僕の理性が保たない……かもしれない。
相変わらず君は、いつものごとく、慌てる僕の心などお構いなしだ。
小さく溜め息をつこうとした。けれど──
「しっ 黙って。この速さだ。わたしの心臓の音、克己くんにも伝わるか? この速さがいい。弾き始めは、この速度で。身体に刻んで覚えるんだ。克己くんが覚えたら、即練習をはじめよう」
背後から抱きつく君は、その鼓動に合わせて僕の身体に重ねた手で拍子を取り始める。
君は既に『音の世界』に入り込んでいたのだ。
より良い演奏を楽しむため、突如降りてきたインスピレーションの伝達を、優先させていることがわかった。
僕も、君の隣で遜色なく輝きたいのであれば、その願いに応える度量がなければならない。
いつもの僕ならば、触れ合っただけで動揺し、激しい動悸に見舞われた挙句──君の心音を感じることさえできなかっただろう。
だが今、僕の背中で感じる君の気配は『少女』のものではなく『音楽家』としてのもの。
突き抜けるような。
引き摺り込まれるような。
どちらともつかない奇妙な感覚が、背筋を登って脳天を襲う。
僕は深呼吸をして、瞼を閉じた。
自分の両手を、腰に絡められた君の腕に重ねる。
君の胸から伝わる鼓動を薄いシャツ越しに受け、同じ目線に立つべく、精神統一をする。
君の望む調べを奏でるために──僕は全神経を集中させ、指で、背中で、君の脈打つリズムを確かめる。
心臓が紡ぐ命のメロディは、血の通った人間の不器用さ、優しさ、不安に歓喜にと、すべての感情を内包しているのだろう。
不思議な高揚を感じた僕の『何か』が、更に深い場所を求め、君の鼓動のその奥へと潜っていく。
その速度を理解した僕は、君の腕をそっとほどき、ヴァイオリンのケースのもとに歩み寄った。
蓋を開けると手早く楽器を取り出し、演奏準備をはじめる。
この集中を切らすことなく音色を奏でたい。
心から、そう願ったのは、初めてのことかもしれない。
いつの間にかピアノの前に移動していた君が、僕の様子に合わせてラの音を鳴らす。
僕は無言で、その音に答えるようにA線を調弦し、D線G線──最後にE線のチューニング終わらせる。
費やした時間は、ほんの数秒。
まるで心の昂りに呼応したかのように血が滾り、身体中が沸騰するような感覚に襲われた。
──早く、弾きたい。
僕の気持ちが伝わったのだろう。
君の前奏が唐突に開始された。
間違いない。
君が言う『匂い』という名の勘は、確かに正しく働いているのだろう。
なぜならば、僕も君と同じ予感を、この心で感じているのだから。
僕たちが奏でる音色は、忘れ得ぬ記憶として、お互いの胸に、その旋律を刻むのだろう。
次話
大人への階段5
=Csárdás=







