第35話 大人への階段3 =ありがとう=
「だいぶ仕上がったわね。あとは演奏当日に一度さらって、タイミングの再確認をすれば大丈夫そうね」
晴子さんの言葉に、僕は頷く。
さすがプロのピアニストだけあって、魅せ方も楽しませ方も心得ている。
コンクールとは違った演奏方法を学ぶことができ、それも自分の糧となる。
「ありがとうございます。当日はよろしくお願いします」
僕はお礼を伝えたあと、ヴァイオリンをケースにしまい弓の張りを緩めた。
「最終日は紅子と一緒に弾くんでしょう?」
「はい。これが高校生で参加する最後の『クラシックの夕べ』になるので──」
晴子さんは部屋に設置された冷蔵庫の中からミネラルウォーターを2本取り出し、そのうちのひとつを僕に手渡した。
会釈をして受け取ると、キャップを回して口をつける。喉が渇いていたので水分はスルリと身体に吸い込まれ、まるで生き返るような心地だ。
晴子さんの腕の動きで、僕にソファに座るようすすめたことがわかった。どうやら話したいことがあるようだ。
「克己くん、コンクールに興味のなかったあなたが、立て続けに挑戦するようになったのって、もしかして……紅子のため? 去年の春先に、美沙子ちゃんの件でゴタゴタがあったでしょう? 紅子もピアノを弾かなくなって──でも、あの子……ある日突然、またピアノに向かい出したの。その時期と、あなたがコンクール出場の準備を開始した時期が重なるのよ。だから……」
その質問に、僕は少し考えてから答えた。
「ひとりで頑張るのって……どんな分野でも大変ですよね。ましてや紅ちゃんは、将来は日本を背負って立つ音楽家だと期待されている。重圧もあるだろうし、孤独を感じることも多い気がしたんです。今までは美沙ちゃんがいたから慰めあえた。でも、今は……」
ひとりでその重圧と、孤独と、立ち向かっているのだろう。
晴子さんは黙って僕の話に耳を傾け、次の言葉を待っている。
「紅ちゃんは独りじゃないって伝えたくて……僕も『音の世界』の片隅にいるんだって。でも、美沙ちゃんの代わりになるのなら、せめて美沙ちゃんと同じ位置につかないといけないと思って──それが、僕がコンクールに挑戦していた理由のひとつです」
少しでも誇れる自分になって、自信をつけたかった。
「紅子はね、美沙子ちゃんがヴァイオリンを続けてくれるだけで良かったの──美沙子ちゃんが音楽家を目指していないことは、あの子もわかっていたから。だから克己くん、あなたの夢がもし、音楽家になることではなく昔のままなら、その夢を目指していいの。紅子のために、あなたが自分の将来を犠牲にしては駄目──あの子は、あなたがヴァイオリンを弾き続けてくれるだけで……それだけで嬉しいはずだから」
晴子さんは、覚えていてくれたのだ。
昔、僕がプールサイドのバーベキューのときに口にした、将来の夢の内容を。
「ありがとうございます。今後のことについては、自分なりに色々と考えています。だから大丈夫。コンクールに出続けたのは『資格』が欲しかっただけ──」
君の隣に立ち、音を奏でる。
そして、この気持ちを伝えるための勇気を持つ。
──そのための資格。
「──ヴァイオリンは学生の間だけ全力で打ち込むと、最初から決めていました。社会に出たら、僕は多くの人に音楽と出逢う機会を作れるよう──『TSUKASA』を通して『音の世界』の可能性を広めていきたいと思っています。その夢は小さな頃から変わっていません」
そのために僕は今年の夏、米国大学主催のサマースクールに参加したのだ。
夢物語だけでは、生きていくことはできない。しっかりした仕事の土台をつくり、音楽以外にも学ばなくてはならないことは、まだまだ山ほどある。
将来的に『TSUKASA』の事業を引き継ぐのであれば尚更、経営者としての舵取り能力も必要不可欠。
『TSUKASA』に入社後、僕が重要ポストにつくことはほぼ確定事項のようだ。だからこそ、その責任に見合う貢献ができなければ、共に働き、力を貸してくれる社員やその家族にも申し訳が立たない。
「来年の夏は、進学を希望している大学への申請準備に殆どの時間を割かれます。複数の専門分野を同時に多角的な視点で学んでいきたいので、進学先は海外になると思います」
それが、今年の『クラシックの夕べ』が、高校時代で最初で最後の参加になると言った理由。
実は、美沙子と進路についての話をしたときに、彼女の叔父がその昔、経営と音楽を同時に学ぶために海外の大学に進学したことを教えてもらったのだ。
美沙子の言葉がなかったら、自分が留学するという大それた考えには、到底及ばなかったと思う。
その可能性を示唆してくれた彼女には、本当に感謝してもしきれない。
「克己くんは、やっぱり男の子ね。きちんと現実も見つめて、その上で行動している──安心できたわ。自分のことも考えて、その上で、紅子のことも見守ってくれて、本当に……ありがとう」
晴子さんは安心したように微笑んだ。
時計を確認すると、そろそろ午前十時になるところだ。
「こちらこそ、心配していただき……ありがとうございます。じゃあ、僕、そろそろ行きます。紅ちゃんの練習が終わったか確認して、そのまま二人で最終日用のリハーサルをしてきます」
僕が晴子さんとのリハーサルをしている間、君は僕の宿泊棟のピアノを使って練習をしているのだ。
柊家の宿泊棟を辞去するべく扉を閉めようとした際、晴子さんが楽しげにウフフと笑う。
「克己くん、ドアは閉めて練習しても、大丈夫だからね!」
僕がそれに返答する間もなく、片方の瞼を伏せた晴子さんの手によって、扉はパタンと閉じられた。
その昔、母が僕に伝えた『思春期のマナー』について、晴子さんが言っているのだと理解できたのは、その直後。
最後の最後で、晴子さんに揶揄われたことに気づいた僕は、小さな溜め息を洩らした。
多分、晴子さんは僕のこの気持ちを知っている。
幼馴染みとしてだけではない、君に向けたこの感情を。
それでも、僕の行動を信頼してくれたからこその言動だと理解する。
僕は感謝の気持ちを込め、扉に向かって静かに頭を下げた。
次話
大人への階段4
=伝わる、君の鼓動=







