第33話 大人への階段1 =春爛漫=
菊の花弁が舞い、椿落つる冬を越え──桜綻ぶ季節が、再び巡りくる。
春爛漫──高校の制服に身を包んだ君と美沙子が、僕の前に現れた。
名前を呼ばれた気がして振り返った先に、二組の母娘の姿を認める。
入学式に付き添った二人の母親──晴子さんと月ヶ瀬夫人が、生徒会の仕事をしていた僕を見つけ、気を利かせたのか声を掛けてくれたようだ。
会釈をした僕は、晴子さんと月ヶ瀬夫人に祝いの言葉を送る。
「御入学、おめでとうございます」
その後、君と美沙子に向き直り「二人とも、おめでとう。ブレザーの着心地はどう?」と笑顔で告げた。
一貫校の内部進学のため、周囲の仲間の入れ替わりはなく、校舎施設も変わらないため学校生活に大きな違いもみられない。
制服の変化を視認することで高校生になったという自覚を持ち、大人への階段を登りはじめた自分にある種の感慨を覚えたのは、一年ほど前のこと。
その頃の自分を懐かしく思い、当時起きた様々な出来事が頭の中に浮かんでは消えた。
君と美沙子も、あの頃の僕と同じ気持ちなのだろう。新たな制服に袖を通したことで、背筋が伸びて表情も引き締まったように見える。
月ヶ瀬夫人が、僕に向かってにこやかに微笑んだ。
「克己くん、これからも紅子ちゃんと美沙子のこと、よろしくお願いしますね。美沙子はしっかりしているようで、そそっかしいところもあるから、親としてはいつまでも心配でね」
「お母さま。そそっかしいは余計です」
美沙子がツンとした表情で母親に抗議するが、お互いを信頼しているからこそ出せた言葉のように聞こえる。
そんな月ヶ瀬母娘の様子を微笑みながら眺めていた晴子さんが、僕にそっと耳打ちをする。その悪戯な眼差しは母娘だけあって、君とよく似ている。
「克己くん、雑誌の特集記事を見たわよ──『クラシック界に新星! 綺羅星の如く貴公子現る!』だったかしら? 出場するコンクールのすべてに一位入賞をしつづけて……専属のアカンパニストとしても鼻が高いわ」
「ありがとうございます──境野先生に伴奏していただいているお陰です。紅ちゃんの活躍には勝てませんが──そういえば紅ちゃん、海外のコンクールに出場するとうかがいました。重ねて、おめでとうございます」
僕の言葉に、晴子さんが目を細める。
「ありがとう。紅子も頑張っているみたいよ。それよりも克己くん? 今は『境野先生』じゃなくて『晴子さん』でしょ? 指導中は師弟のようなものだけど、今は違うんだから」
晴子さんは苦笑しながらも、言葉を続ける。
「それにしても、以前の様子が嘘みたいね。楽器の件もさることながら、あなた自身の目覚ましい成長に驚いたわ。本当に立派になって──雪乃も鼻が高いでしょうね」
以前の様子──とは、二年前に柊家を訪問した夏の日のことを指しているのだろう。あのとき中学生だった僕は、晴子さんからのお世辞にどう返答していいのかわからず、慌ててしまったのだ。
コンクールに参加するようになってからというもの、舞台では人の目に晒され、近頃では各種インタビューも増えた。そのどれもが僕にとって、度胸と対人スキルを磨く場となっている。
それが人生の糧になっているのだろう。最近では咄嗟の会話にも落ち着いて対応できるようになった。
「母がどう思っているのか、僕にははわかりませんが──相変わらず写真を撮ってはスクラップブッキングを楽しんでいますよ。声楽の仕事が落ち着いたら、シャドーボックスと合わせてクラフト教室を開こうかと言って、冗談なのか本気なのか……でも、本人はとても充実しているようです」
僕の話した内容に、晴子さんがフフッと笑う。
「スクラップブックといえば、この前紅子の卒業祝いに、雪乃から手づくりのアルバムをいただいたのよ。可愛くデコレーションされていて、小さい頃からのあなた達の写真も並んでいてね、とても素敵だったわ。ね、月ヶ瀬さん」
晴子さんの言葉に、月ヶ瀬夫人が相槌をうつ。
「そうね。美沙子の卒業祝いにも同じものを頂戴したのよ。三人の成長を時系列で楽しめる素晴らしい作品だったわ」
卒業祝いのスクラップブック──母が居間のテーブルを占拠し、夜な夜な作っていた手づくりアルバムだ。
僕からのメッセージもつけるのだと言って、母から渡されたカードに祝いの言葉をしたためたのは先月のこと。
僕が晴子さんと月ヶ瀬夫人と話し込んでいると、突然君の元気な声が響いた。
「晴子! 克己くんを囲んで、わたしたち三人の写真を撮ってくれ。頼む」
君が名案だ、とでも言わんばかりに、身を乗り出す。
「克己くん、生徒会のお仕事中に申し訳ないけれど、写真を撮らせてもらってもいいかしら?」
自分が担当していた作業もほぼ終わっていたので、一緒に作業していた生徒会役員の仲間にも許可をとり、三人で一緒に並ぶ。
晴子さんだけではなく月ヶ瀬夫人もレンズの蓋を外し、カメラを顔の位置に構えた。
「はい、三人とも笑って!」
撮影が終わると「素敵な写真が撮れたわよ。このお写真だけすぐに転送するわね」と、母親二人がカメラの通信機能を使って、予め設定してあったスマートフォン内のフォルダに写真を送っているようだ。
「おーーーーい! 鷹司ーーーー! 取り込み中悪いな。ちょっとこっちも手伝ってくれーーーー!」
生徒会顧問の小清水先生に遠くから呼ばれた僕は、四人に別れを告げ、その場を離れた。
明日の新入生オリエンテーションに向けての会場準備を手伝っている最中だったので、新たに頼まれた作業を再開する。
会場設営完了後にスマートフォンを開けると、先ほど撮影した写真が君と美沙子のそれぞれから届いていた。
宛先を見ると、僕の母宛にも送られているようだ。
その写真を目にした母は「スクラップブックに1ページ追加しなくちゃ」と言って、平日夜と週末にクラフトに没頭し、後日作成したページを柊家と月ヶ瀬家に届けていた。
我が家の居間にも、三人が笑顔を見せる写真が新たに加わった。
去年撮影したものより、君と僕の距離が近づいているように感じたのは、目の錯覚なのか。
その写真を見ながら、僕は小さく呟く。
「──宿題……」
去年、君から出された宿題の答えを、僕はまだ出していない。
それは、僕が伝えたいと口にした内容についても、君に話していないことを意味している。
僕は壁にかけられたカレンダーに目を向け、数枚をめくり、八月のお盆期間の日付を確認した。
今年の夏──僕は『クラシックの夕べ』への参加を決めた。おそらくこれが、僕にとって高校時代の最初で最後の参加になると思われる。
そのことを先日君に伝えたところ「今年は、わたしも参加する」との返答が戻ってきた。
『クラシックの夕べ』の平日のコンサートで、僕たちはそれぞれの曲目を演奏する。
そして、最終日には二人で合奏を楽しもうと、話がまとまったのは数日前のこと。
夕焼けの音楽室で、僕ら二人が初めて音を重ねた日から、気づけば一年が過ぎていた。
あの日、目を真っ赤に腫らしながら、孤独と立ち向かう覚悟を決めた君。
今年の君は、どんな心を爪弾く音色にのせ、その指から類稀なる音の連なりを生み出すのだろう。
瞼を閉じれば、情景が目に浮かぶ。
青空の下。
森の木立に囲まれたガゼヴォ。
食事を楽しむ人々の笑顔と喧騒。
二人で選んだ曲は、あの日と同じ── 『Csárdás』。
願わくば──君の奏でるその調べが、幸福で満ち、笑顔であふれていますように。
次話
大人への階段2
=それぞれの夏=







