第32話 自覚と資格5 =邁進=
美沙子はこのまま、本当に音楽の世界から離れてしまうのだろうか。
残念に思う気持ちが僕の胸に何度となく押し寄せた。
けれど、聞けば彼女は、弟の貴志が習い始めたチェロの練習に、日々付き合っていると言う。
最初の頃は、その練習も見ないふりを続けていたようだが、しばらくすると練習中の微妙な音のズレが気になりだし、貴志の自宅練習に手を貸すようになったとのこと。
その経過報告を君と月ヶ瀬夫人から聞いた僕は、少しだけ安堵したのだった。
それにしても、あの小さな貴志がチェロを──驚きと共に喜ばしい気持ちになり、学校の廊下で美沙子とすれ違った際に呼び止め、彼の話を振ってみた。
弟の話題に対して、美沙子は腕組みをしながら、なぜチェロを習うことになったのか、事の顛末を語ってくれた。
「紅子が貴志をそそのかしたのよ。二人で一緒に『音楽戦隊』のごっこ遊びをしたときに、音楽ルームにあるチェロを貴志が発見して、武器にするんだって言ってね。いま一生懸命チェロの練習をしているの。その様子が本当に可愛くて可愛くて!」
『音楽戦隊』──巷で流行している週末朝放映の特撮ヒーロー番組のことだ。
楽器の音色を武器に戦うアクション物語だったと記憶しているが、僕は観たことがないため詳しいことはわからない。が、『TSUKASA』の音響部隊が撮影協力をすることもあるようで、時々父がそのヒーローグッズを持ち帰ってくることがあった。
父からそれを譲り受けた僕は『音楽戦隊』のファンだという貴志に、それらをプレゼントしたことも何度かあり、嬉しそうな顔で「ありがとう」と言われた記憶を思い出す。
美沙子の弟への愛は止まるところを知らず、貴志の話題を話しているうちに次の授業の予鈴が鳴ってしまった。
途中まで進む方向が一緒だったので、美沙子と二人で廊下を並んで歩く。
「そうだ、克己くん。今週末、コンクールのファイナルがあるって紅子から聞いたわ。頑張ってね。わたしが言うことじゃないのは承知しているんだけど──紅子の隣で、あの子のことを支えてあげて。強がっていることも多いけど、あれでなかなか脆いところがあるから」
まるで「君を僕に託す」とでも言うような美沙子の口ぶりに、複雑な心境になった。
つまりそれは、美沙子の中で彼女自身がヴァイオリンを弾く未来はないと、断言したようなものだったから。
「やだ、克己くん。ちょっと……そんな顔しないでよ。わたし、音楽を完全に嫌いになりたくないだけなんだから。それに、信じていた誰かに裏切られるのも嫌。あとこれは、勘違いしてほしくないから言っておくけど──」
そう口にしてから、一呼吸おいた美沙子は苦笑いをしながら言を継ぐ。
「わたしね、紅子みたいに音楽家を目指していた訳じゃないのよ。これから先は──父の会社を手伝うための勉強をしたいの。グループ企業全体は貴志が引き継ぐだろうけど、わたしだって補佐くらいはできるわ。一応、月ヶ瀬グループの跡取りのひとりっていう自負もあるしね」
不登校期間も含め、美沙子なりに悩んで出した結論なのだろう。
美沙子のその答えを寂しく思いながらも、僕がとやかく言える立場にいないことも理解している。
この先ずっと、彼女の人生に関わる覚悟があるのならばいざ知らず、僕たちの関係は単なる幼馴染にすぎない。
「でもね、勉強に専念すると言っても、貴志のチェロの練習だけはこれからもみるわ。だって、ヘナチョコな音を出すのは、やっぱりちょっと許せないから。克己くんもファイナルでの演奏、楽しんでね。会場には……まだ怖くて行けないけど、応援してるから」
最後に僕への激励の言葉を残し、美沙子は手を振りながら自分の教室へ戻っていった。
…
僕が初めて参加したコンクールはビデオ審査を通過し、今週末に最終選考が行われる。
勿論当日は、万全の態勢で臨むつもりだ。
ヴァイオリンの先生の熱心な指導のもとコンクールに挑戦し、周囲の様々な人間の手を借りながらここまでやってきた。
『音の世界』を独り先に進む君。
僕は美沙子の代わりに、君の心を支える人間になりたい。
だから僕は、君への気持ちを自覚した音楽室で、自分自身で納得できる資格が欲しいと感じたのだ。
目に見える形で音楽と向き合い、君の隣で遜色なく輝く演奏ができたとき──僕はやっと、自分に少しだけ自信が持てるような気もする。
その自信が、君と一緒に『音の世界』を歩くための資格になると信じ──いまは邁進するまでだ。
次話、
大人への階段1 =春爛漫=
を予定しております。
(克己は高2に、紅子&美沙子高1に成長です。)







