第30話 自覚と資格3 =提出期限と、僕の決意=
僕は首を傾げて、君を見つめる。
「初めて会ったとき、わたしたち空港でキ──」
キス──僕にとっての黒歴史兼パワーワードを言葉にしかけた君の口を、焦ったこの手が咄嗟に塞いだ。
小さい頃のことだけど、周囲の人間が聞いたら、あらぬ誤解を受けかねない。
もちろん僕はいい。でも、君は女の子だ。
だから、そういう話が誰かの耳に入るのは、君の名誉に傷がつくような気がして避けたかった。
まあ、本人はまったく気にしていないようだけれど。
「紅ちゃん、お願い。その言葉を使わないで説明してよ。人通りもあるんだし」
慌てて伝えた僕の腕から抜け出した君が「克己くんは、本当に照れ屋さんだな」と、楽しそうに笑った。
「あの日……初めて空港で会ったとき、『匂い』がしたんだ。それも『一番』の匂いだ!──けど……あとは、宿題にしよう! 全部答えを言ったら面白くないだろう? 少し自分の頭でも考えてくれたまえ! 若人よ!」
若人って、君のほうが僕よりも年下なのに、と思いつつも確認をする。
「宿題? 提出期限はいつまでなの?」
学生の本分というか、日頃の習慣なのだろう。
宿題と言われると、期限が気になってしまう僕だ。
君は、顎に手を当てて、うーんと考え込む。
「そうだな……じゃあ、こうしよう! 克己くんがさっき言ってた『資格』を手に入れて、大切な話をわたしにしてくれたとき──そこで、答え合わせをしよう!」
そう言い切ったところで君は一歩後退し、僕のことを改めて見つめた。
「克己くん、今日はありがとう。またピアノを頑張ってみる。それから──待ってるから。『音の世界』で」
久々に君が見せた太陽の笑顔は、キラキラと輝き──手を伸ばせば、つかめるような気がした。
「じゃあ、わたし帰るね。あ!──そうだ! 御礼」
君は満面の笑みを見せると、僕の制服のネクタイをグイッとつかんで勢いよく引き寄せる。
咄嗟のことに、君のなすがままになってしまった僕は、息を呑んだ。
それは一瞬の出来事。
君の薄紅色の唇が、僕の頬に触れたのだ。
僕はその事実を瞬時には理解できず、暫し茫然とする。
我に返った僕は、初めて君と出会った空港ロビーでとった行動と同じように、思わず周囲を見回してしまう。
僕たち二人と揃いの制服を着た学生数人に、今の行為を目撃されていたことにも気づく。
「紅ちゃん! こんなことしたら駄目だって、僕、前にも言ったよね!?」
教育的指導再び──なのだが、声がうわずってしまい、年上の威厳なんて皆無だ。
「克己くんはカルシウム不足なのか? 何を怒っているんだ? 好きな相手なら問題ないと、克己くん自身が言っていただろう?」
君は理解不能という表情で首を傾げる。
──でも、僕は知っている。
「君が言う『好き』と、僕の説明した『好き』の意味は、違うの!」
君は「ふぅ〜ん、そうなのか?」と言って、唇を僅かに尖らせた。
「……そうなのかもしれないが──さっきは、克己くんだってわたしの指に敬意を払ってくれたじゃないか。それだって『好き』の一種だろう? 今のは単に、今日の御礼をしたかっただけなんだから、まぁ、深いことは気にするな──あっ 電車がきた!」
ホームに滑り込む電車の気配を感じた君は、スルリと改札を抜けていく。
階段を登る直前、こちらを振り返った君が大きく手を振った。
「今日の克己くんには、ちょっとドキドキしたぞ! 長年謎だったことも分かったし、これはかなりの収穫だ! じゃあ、また!」
君はアハハッと楽しそうに笑うと、そのまま後ろを振り返りもせずに、僕の前から消えた──この心に動揺だけを残して。
きっと僕の顔は、君の名前の色に染まっているのだろう。
左手で顔下半分を隠した僕は駅構内を足早に歩き、ヴァイオリンのレッスンへ向かった。
君との距離が近づいたような気がして、心が浮き立つ。けれど──
ここからは、気合いを入れなければ。
これから僕は、やっと見つけた目標を、音楽の師に伝えるのだから。
…
「とうとう見つけたんだね。君の目標を」
ヴァイオリンスタジオで、先生が真剣な表情で僕に確認する。
僕はその目を見つめて、しっかりと頷いた。
「はい。コンペティションに参加してみようと思います。先生の目から見て、僕の実力でも参加することは可能でしょうか?」
僕は参加希望するコンクールリストのメモ書きを、先生に手渡して見せた。
「これは──」
そう呟いて考え込んだ恩師。
力不足で許可されなかったら──と怖くなり、膝の上で手を握る僕。
だが、先生はしばらくすると顔を上げた。
「きみは小さな頃から、私が注意したことを、次のレッスンまでに必ず直してきた。それはね、誰にでもできることではないんだよ。時には逃げ出したくなるような、地道な努力を積み重ねてきたことを意味するんだ」
僕は先生の言葉に、静かに耳を傾ける。
「克己くんは自分の実力に気づいていないようだけれどね、きみが小さな頃から続けてきた練習は決して無駄ではなかったと──それを証明する、よい機会になると、私は信じているよ──」
先生は僕の肩に手をのせると嬉しそうに笑い、再び口を開く。
「なによりもね、音楽を愛していなければ、ここまでの演奏はできない。もう少し、きみは自分に自信を持っていい。今まで重ねてきた努力を……自分が歩んできた時間を──胸を張って誇りなさい」
先生の激励の言葉を受け、僕の胸が熱くなる。と、同時に安堵の息もつく。
コンクールの話を先生と進めていく中で、一次審査の提出動画作成のために、伴奏者のアテはあるのかと確認される。
「境野晴子先生に、お願いしようと思っています」
境野晴子──本名は、柊晴子──君の母親だ。
「境野先生か。彼女の伴奏は奏者の良いところを引き出すからね。境野先生からの指導で、色々と学ぶことも多いだろう。それと、撮影機材については……──ああ、そうだった! 君は『TSUKASA』のスタジオで録音も撮影もできるんだったね。いや、これは、かなり頼もしいな」
審査用の動画は、高音質であることが大切だ。
しっかりとした機材を使用するほうが、やはり音の質も良くなるため、審査には通過しやすい。
今後の打ち合わせを先生と詰めたあと、僕はスタジオから帰路につく。
一年だ。
その間に、できるだけの結果を出そう。
僕は、自分の指先を見つめながら、そう決心した。
次話
自覚と資格4
=顛末=







