第29話 自覚と資格2 =誤解と、君への裏切り=
「違うから! まったく見当違いだから!」
僕は校門近くで我に返り、君に否定の言葉を語気強めで告げた。
茫然としてしまい反応を返すにしては相当な時間が経過してしまったのだが、絶対にその認識を君の心に植えつけたままにしてはおけない。
つまり──僕が、美沙子を好き──という、見当違いも甚だしい誤解を、一刻も早く君の頭の中から追い払いたかったのだ。
「照れなくてもいいぞ? 克己くんが幸せなら、わたしは嬉しい。まあ……寂しい気もするが、美沙子は美人だからな」
「いや、待って! どうしてそんな認識になっているのかわからないんだけど。説明してよ、紅ちゃん」
僕が早口で訊ねると、君は人差し指で顎を掻きながら教えてくれた。
その結果、その誤解は、あの雪の日を起点に始まっていたことが判明した。
電車も止まるような雪嵐が首都圏を襲ったあの夜のことだ。
ヴァイオリンのレッスン帰りの駅構内。スマートフォン越しで聴いた君の声とその様子を心配し、慌てて駆けつけたというのに、君の認識はまったく違っていた。
どうやら、僕が心配していたのは体調を崩した美沙子本人。もちろん美沙子のことも心配していたから、間違ってはいないが……。
恋する美沙子会いたさに、君に便乗した僕が月ヶ瀬邸に付き添ったと思われていたようだ。
その後も数週間、遅い時間帯に君を一人で歩かせることが心配で一緒に歩いた夜道。それについても、僕が美沙子の顔を見たさに送ってくれたと思っていた──と語りだす始末。
僕は溜め息と共に、がっくり肩を落とした。
──それって、僕がどんなに君のことを想ったとしても、君は僕のことなんて眼中にないと、遠回しに言っているの?
色々と勘繰ってしまうのは、君への慕情を自覚してしまったから。
頼ってもらえたり、本音を曝け出したり、君が甘えてくれるのは、僕を身内──『兄』と思っているから。そのことは理解しているつもりだが、なんとも歯痒い。
「あのね……美沙ちゃんのタイプは、僕みたいな気弱な駄目人間じゃないよ……」
僕は項垂れながら、そう呟く。
「ダメ人間? 克己くんが? ダメ人間か! あははっ それは面白い冗談だ。でも、ダメ人間はわたしも嫌だ」
ダメ人間を連呼され、グサッと心を抉られる。
心の中は、灰色だ。しばらく立ち直れないかもしれない。
しかも先ほど、僕たち二人の会話を隣で聴いていた小清水先生の言葉も思い出し、余計に落ち込んでしまう。
僕が君のことを「紅ちゃん」と声に出して呼んでから、しばらく黙っていた先生は急に何かを思い出したように手を叩き、「ははっ なるほど! 鷹司、そういうことなのか! まあ、色々と大変そうだが、安心はした。とりあえず、今日は気をつけて帰れよ」と、したり顔で言って去って行ったのだ。
生徒会顧問の小清水恒明先生──彼は、僕の中学最終学年時の国語科担当教諭でもあった。
僕が君の名前を「紅ちゃん」と呼んだことで、瞬時にあの和歌と結びつけたのだろう。
そう──『くれなゐの──』から始まる、詠み人知らずの古今和歌集の『恋の歌』。
実はあのテスト、空欄にはなり得ない設問だった。消去法で回答しても、選択肢すべてを解答欄に埋めることのできる問題だったのだ。
配点2点の問題だったのだが、なぜかマイナス2点とはならず、マイナス1点で返却されていたりする。しかも、小清水先生からの手書きメッセージ付きで。
そこには、「遅れてきた反抗期でしょうか。それとも思春期ですか? 悩みがあるなら相談に乗りますよ」とあったので、その件以降、僕の様子を気にかけてくれていたのだろう。
『紅ちゃん』と『くれなゐの──』、それから『恋の歌』と『今日の僕の行動』によって、あの空欄の指す意味が「思春期の悩み」であったと、小清水先生の知るところになってしまったのだ。
なぜ僕の周りには、勘のいい大人ばかりが揃うのだろう。
溜め息が洩れてしまう。
落ち込む僕を慰めようとしているのか、それとも何も考えていないのか、先を歩く君がクルリと振り返り、僕に向かって手を伸ばす。
ここで、兄妹ごっこか──そう思いながら、僕は君と手を繋ぐ。
学校から駅までつづく通学路。
春休み中の部活動帰りの生徒も多数見受けられる。
時々同じ制服を着た学生がチラチラとこちらに視線を寄越すのは、なぜなのだろう。
美沙子の『言いつけ』を忘れたわけではないけれど、君の手に触れることに躊躇はない。
君に向けた恋慕の情。
それを自覚し、認めた途端、この心に生まれたのは独占欲──君のすべてが欲しくなる。
こんな浅ましい考えをもってしまう僕は、やはり駄目人間で間違いないようだ。
君は僕のことを、兄としか思っていない。
この気持ちは、僕を信じる君への……裏切りになってしまうのだろうか。
そんな後ろめたい僕の心など知る由もなく、君は繋いだ手を歩く速度に合わせて振り上げ、時々僕を見上げては嬉しそうに笑う。
どうしたことか、機嫌がいいようだ。
もしかしたら君は、ピアノに再び触れた喜びから、その心を弾ませているのかもしれない。
「美沙子のタイプか……考えたこともなかったな。だって、克己くんに会ったら、みんな克己くんのことを好きになるって思っていたから。だから、克己くんも美沙子を好きなら相思相愛。応援しないとって──でも、そうか……違うのか?」
それはどんなつもりで口にした言葉なのだろう。
質問しようとしたけれど、君はそのまま話し続けた。
「あれ? じゃあ、わたしの勘もまだ捨てたもんじゃないってことだな。初めて『匂い』を外したと思って、結講ショックだったんだ」
『匂い』?
そういえば、君は『虫の知らせ』や『野生の勘』のようなものを表現するときに、『匂い』と言っていたことを思い出す。
しかも一度たりと、外したことがないとも言っていた。
「『匂い』を外したって? 一体、何について?」
気になった僕は、君に質問をした。
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