第28話 自覚と資格1 =思考停止=
ヴァイオリンの表板に付着した白い粉末を、専用の布で拭い取る。
弓の馬毛に塗った松脂が、弦との摩擦でこぼれ落ちたものだ。
放置するとこびりついて落とすのに苦労するらしく、視認できるほどの量がなくても演奏後は必ず磨くようにしている。
僕の伴奏を弾き終えた君は、鍵盤を見つめながら再び涙を零し、嗚咽を洩らしはじめた。
今はきっと、心行くまで泣いたほうが心も落ち着くだろう。
僕はそう判断し、君の様子を静かに見守った。
透明な雫が頬を流れては零れ落ち、制服を色濃く染めていく。
君は泣き顔を隠すこともなく、ただ落涙するばかり。
音楽室の窓には、夕暮れ刻に向かって色を変える空が広がる。
紅と黄金と、少しの紺青が溶けた空。
まるで三人の少女の心が、鬩ぎ合っているようだ。
紅が君だとしたら、黄金色は美沙子。
紺青は、もしかしたら葵衣──なのかも知れない。
複雑に絡みあう三色は、刻一刻と姿を変えては新たな色を生み出していく。
窓の外へ向けていた視線を、君へと戻す。
止まらぬ涙に君の目は、益々赤く色づいていった。
このままでは瞼も顔も、腫れてしまいそうだ。
僕は右手を伸ばすと、君の頬を流れる涙にそっと触れた。
──その肩を抱きしめ、慰めたい。
衝動的な感情が生まれたが、自制する。
間違いない。
僕はもう、君を『妹』として見ることはできないようだ。
臆病だった僕は二人の関係を壊すのが怖くて、その想いに蓋をし、長い間気づかぬふりをし続けた。
何度となく隠しつづけた心は、いつの間にか枝葉を伸ばし、君の心をこんなにも求めている。
音楽室の窓から射す夕暮れの日差しは橙色。
その光線は、グランドピアノの上に真っ直ぐ伸び、黒と交わり眩い蜂蜜色に変わる。
光の先には僕のヴァイオリンが横たわり、飴色の光を放っていた。
「紅ちゃん、僕もいるよ。君が独りになったと思っている『音の世界』には、まだ……僕もいるんだ」
椅子に座ったままの君が、僕の顔を見上げる。
「今度、君に聞いてほしい話があるんだ……僕が自分自身で納得できる資格を持てたら……なんだけど」
二人の音色を重ねた今日。
自覚した君への想い。
けれどまだ、その心を伝えることはできない。
「資格?」
君は不思議そうに、その言葉を反復する。
「僕は、君の弾くピアノが大好きだ。だから僕も、君の音色に値する演奏ができたら、話したいことがある──それだけ」
悲しみに塞ぐ君を支えるため。
孤独に飲み込まれそうな君の心を、その隣で守りたい。
それは、きっと独りよがりな想い。
けれど──僕は君の大切さに気づいてしまった。
今日のこの日──君の涙に誓った想いを、僕は決して忘れない。
…
「そうか、鷹司と柊は幼馴染だったのか。学校で話をしているところを見たことがなかったから、まったく知らなかった」
生徒会顧問の小清水先生と職員室へ戻る途中、そんな世間話をする。
鍵の返却時間が近づいたので、先生自ら迎えに来てくれたのだ。
おそらく僕に腕を掴まれ、涙を流す下級生女子という図も、先生の心配の種のひとつだったのだろう。
僕に許可証を渡したあと「実は心配になって、すぐにお前達を追いかけて音楽室までやってきたんだ」と先生は頭を掻いていた。
数人の生徒が扉から覗き込んでいたようで中の様子はわからなかったが、しばらくするとピアノの音が流れ始めたので、そのまま職員室に戻ったと、先生は苦笑していた。
心配をかけてしまったことを申し訳なく思い、恐縮しながら謝罪する。
「いや、それはいいんだ。大丈夫だろうと思って許可証を出したんだが、お前も多感な年頃だからな。人生の先輩として心配になっただけだ。それよりも、新学期になったら大騒ぎになるぞ。鷹司が泣いている下級生を連れ回していたって……ああ、卒業式は大変だったらしいが、人気者の宿命だな。お疲れさん!」
先生は、ワハハッと笑いながら、僕の肩をバンバンと叩く。
人気者の定義とは?
僕は先生の言葉に首を傾げた。
もしそれが事実だとしたら、僕の周りには僕を慕ってくれる人間が集まり、賑やかな学校生活を送っていたことだろう。
しかし残念ながら、そんな状況を経験したことは一度たりとない。
どちらかと言えば遠巻きに眺められ、腫れ物扱いに近かった気がする。
そんな状況だったから、ボタンを奪われた卒業式においては、新種の嫌がらせを受けたのかと思ったほどだ。
先生からも色々と誤解されていることが判明し、思わず溜め息が洩れた。
「克己くん、申し訳ない。わたしが大泣きをしたから、恒ちゃん先生にも色々と勘違いをされているのかも知れない?」
勘違い?
いや、それは勘違いではない。
僕が君のことを大切に想っているのは、確かな真実だ。
今はまだ、口にすることはできないけれど。
「美沙子には校内で克己くんと話をするなと言われていたけど、今日はわたしを宥めるために学校でも『兄妹ごっこ』をしてくれたんだろう? 手を……繋いでもらったからな」
兄妹ごっこ?
そういえば、手を繋ぐことを君は『兄妹ごっこ』と言っていたなと思い出す。
厄介事を呼び込むから──と美沙子と二人して校内で、僕との接触を徹底して避けていた苦い記憶もよみがえる。
ここに来てやっと、美沙子の『言いつけ』を破ってしまったことに気づいた僕だ。
「克己くん、大丈夫だ。誰かに何か訊かれることがあっても、ちゃんと説明しておくから安心してくれ。わたしからも美沙子にフォローを入れておくから、そっちも安心していい」
僕は君に「そうしてもらえると助かるよ」と頭を下げた。
その返答に、君の瞳が、なぜか揺らいだ気がした。
「やっぱり……そう、なのか? わかった。……ちゃんと美沙子には話しておくから、克己くんは大船に乗った気持ちでいていい」
「? それは……心強いな。紅ちゃん、ありがとう?」
なぜだろう。
まったく安心できない気持ちになる。
──やっぱりそうなのか? って何が「そう」なんだろう?
疑問に思い、問いただそうとしたところ、君の放った次なる言葉で、僕の脳天はかち割られたような衝撃を受けることになる。
「克己くんの『一番』は……美沙子か。本当に……大好きなんだな」
君の言葉は、僕の心を完全に思考停止に追いやった。
冒頭の場面に、到達。
次話
自覚と資格2
=誤解と、君への裏切り=