第27話 君の爪、君の指5 =僕の役目=
「克己くんが……男の人、みたいだ」
心底驚いたという声音で、君が言う。
まるで今までは、そうとは思っていなかったような言いぐさに、僕は苦笑した。
「そうだよ。僕は男だよ──昔からね」
君の手を開き、僕の掌を正面から合わせる。
「ほら、もう、僕の手の方が大きい。身長だって君よりも高い。どこからどう見ても、男でしょう?」
「そう……なのかもしれない?」
君は、少しだけ困ったような表情を見せた。
「どうして、最後が疑問形なの?」
首を傾げてそう訊ねると、君は重ねていた掌を僕から離し、膝の上に戻して俯いた。
「克己くんが、男の人だって……今やっと、気づいたから……」
離れていく指先に名残惜しさを感じたことに、僕は息を呑む。
君の手に触れていたいと願う、その理由は──?
心の動きに動揺した僕は、天井を見上げて唇を噛んだ。
──もう、いい加減……認めよう。
閉じていた心の蓋を、自らの意志で開く覚悟を決める。
これは隠しようのない事実。
僕は──君が好きだ。
それは家族や『妹』に向ける『好意』ではなく、ひとりの女性としての君を求める『慕情』。
半年前の自分の行動を懐かしく思う。
今ならあの和歌の問題に、迷うことなく選択肢『b. 恋の歌』と記入できるのに。
内心の動揺を隠し、僕は君に問う。
「願掛けを、まだ──続けるの?」
穏やかな声で質問できたのは、君の選ぶであろう答えを、僕が知っていたからだと思う。
君は沈黙し、自分の指先をじっと見つめている。
その心の中は、いまだ葛藤しているのだろう。
僕は君が、『音楽』を心から愛していることを知っている。
それと同時に、独りで『音の世界』に戻る不安に怯え、足踏みしていることも伝わっていた。
君が、尻込みしているのなら──その背中を押すのが、僕の役目。
おそらくそれが、美沙子が君を僕のもとに送った理由。
元いた『音の世界』に独りで戻ることを躊躇するであろう君の、その後押しをしろと、美沙子は言っているような気がするのだ。
「美沙ちゃんも望んでいるんだよね? 何よりも、君が──弾きたいんだよね?」
僕の問いかけに、君は小さく頷いた。
「……美沙子が望んだんだ──『音の世界』に戻れって。それは多分、自分が弾けない分、わたしに弾いてほしいっていう『願い』を託されたこと……なんだと思う。でも、わたしだけが──」
皆まで言わせず、君の手をとって立ち上がらせ、そのままグランドピアノの前に連れていく。
後ろ向きな言葉を口にするよりも、目の前にある鍵盤に触れて欲しかった。
そうすれば、君の決心がつくと思ったから。
鍵盤蓋を開けると製造メーカーの文字が目に入る。
ここから『音の世界』に向けての再出発を決断するであろう君。
その君が触れるピアノは『TSUKASA』製。
椅子を引いた僕は、ここに座ってほしいと目で促す。
君の着席を確認した僕は側板へ移動し、大屋根を持ち上げてから突上棒を挿し込み、しっかりと固定する。
鍵盤の表面に指で触れた君は、唇を噛んだ。
涙を拭った君は一度瞼を閉じて、何度も何度も深呼吸を繰り返す。
決心がついたのか、目を開けた君が、人差し指でラの音に触れた。
音程の確認を開始すると、君の様子に変化が起きる。
最初は恐る恐る鍵盤に触れていた君。
けれど、その指先が徐々に自信を取り戻し、力強い音色を紡ぎはじめる。
指慣らしのために弾き始めた曲は、いつもと同じ練習曲ハノン。
調律の施されたピアノは寸分の狂いもなく、正確な音程を歌い上げる。
君の指から生み出された音階は部屋全体に広がり、壁の中に吸い込まれていく。
ハノンを弾き終えた君は、そのまま止まることなく『水の戯れ』を奏ではじめた。
君の目が認識しているのは、鍵盤だけ。
僕の存在は、既に眼中にないのだろう。
幼い頃──こちらを見向きもせず、泡と遊ぶ君に、僕は淋しさ覚えた。
去年の夏に至っては、置き去りにされたと── 君の対応に、怒りさえ湧いた。
けれど、今は──
僕を顧みることなく『音の世界』に没頭する君を、こんなにも──嬉しく思う日が来るなんて。
指先がピアノに触れるたびに鍵盤が沈み、指が離れると元の位置に戻る。
その動きを繰り返すだけで、格調高い調べが生み出されていく。
その指さばき、音色の輝き、君の眼差し。
そのすべてから歓喜が迸り、まるで音との再会を祝っているように聴こえる。
きっと、僕の気のせいではない。君の心からの想いが、連なる音の粒に宿っているのだろう。
白と黒の鍵盤上で踊る、その指先は──薄紅色。
君は、その色を携え、戻ってきたのだ。
君と僕の二人が、愛してやまない──『音の世界』に。
君の爪が、君の指が──今このときをもって、再び息を吹き返す。
この再生の瞬間に立ち会えた歓びを、僕はこの先ずっと──忘れることはないだろう。
…
君は、試練をひとつ乗り越えたのかもしれない。
たとえ独りになったとしても、愛する音色を求め、荒波に向かって果敢に挑んでいくのだろう。
ひと通り演奏を終え、満足した君の指がピアノの上から離れた。
そのときを待っていた僕は、深呼吸をしてから、君に言葉をかける。
「紅ちゃん、僕じゃ力不足かもしれないけど、一曲だけ一緒に弾いてくれる?」
君の隣で奏でるのは、美沙子の役目だった。
だから、君と一緒に演奏をすることは、今までもこれからもないと思っていた。
君や美沙子のような高度な音色を生み出す技術は、今の僕にはまだない。
けれど──伝えたかった。
君は独りではないと──君のいる『音の世界』の片隅には、僕も存在しているのだと、知ってほしかったのだ。
「去年の『クラシックの夕べ』で、美沙ちゃんの伴奏を君がしていたでしょう? あの曲は、今でも弾ける?」
君の返答は織り込み済みだ。
一度弾いた曲を、君が忘れるわけはない。
「モンティの『Csárdás』──もちろん弾ける」
僕は笑顔で頷いた。
19世紀のヨーロッパで流行し、一時期ウィーン宮廷から演奏禁止の法令が出されたほど人気を博した曲。
所謂、酒場曲だ。
食事を楽しみ、酒を酌み交わし、仲間と共に踊ることを目的としたこの曲は、気心の知れた友人たちと『音』を『楽』しむために作られたと言っても、いいのかもしれない。
当たり前のことだが、僕は未成年なのでお酒を口にしたことはまだない。
だから、本物の酒場がどんな様子なのかは知らない。
でも、僕の中にあるイメージは『クラシックの夕べ』最終日──チャペル前の広場で繰り広げられる、青空の下での食事の光景──老舗ホテル『天球』で開催される地産物の紹介を兼ねた、大規模な野外イベントだ。
僕の頭の中には、人々が肩を寄せ、陽気に笑いあいながら食事を楽しむ様子が思い浮かんでいる。
この曲を聴くと、あの会場での時間を思い出すのだ。
僕のヴァイオリンの準備が終わるのを確認した君が、前奏を鳴らす。
フォルテで爪弾くその音色は、僕の心の蓋を、完全に取り払っていった。
織りなすLargoの調べは重厚で、けれど、なぜか軽やかな気持ちにもなる。
前奏の最終音に合わせ、僕は鼻から息を吸い上げると、構えたヴァイオリンに弓を添わせた。
伴奏が休符に入るのと同時に、弓の先端がストリングに触れながらアップボウで駆け上がる。
気怠い調子で始まる調べは、酒場の暗がりを演出しているのだろうか。
僕は曲に想いを馳せ、『音の世界』に入り込んでいった。
君と、この曲を、心のままに奏でたい。
そう願って愛器を歌わせたのに、演奏中のことは何ひとつ覚えていない。
ただ、無心で弾き続けた。
君の音色を求めて。
──君自身に恋焦がれて。
次話
自覚と資格1
=思考停止=