第26話 君の爪、君の指4 =触れる儀式=
洟を啜る音が、室内に響く。
音楽室の椅子に君を座らせたあと、僕はヴァイオリンのケースを開け、その中に保管されている小さな袋を取り出した。
その袋の中に手を入れた僕は、爪切りと爪やすりを探す。
爪切りは、ホースヘアーが切れてしまったときの処置のためにヴァイオリンと共に持ち歩き、爪やすりは毎日の練習が終わったあと、僕自身が使用しているものだ。
いつの頃だったか、爪を切る角度の違いでも演奏時の細かなバランス配置が変わってしまうことに気づき、それ以降、爪切りを使用せず、爪やすりやエメリーボードを使い、爪の断面を均一に整えるようになっていた。
僕は君の前で跪くと、その手にそっと触れた。
本当なら君の爪も、ヤスリで磨いた方がいいのだろう。
けれど、その爪先で存在を主張する三日月は、削るにしてはあまりにも長く伸びすぎていた。
弾けばいい──そうは言ったものの、この指でピアノに触れれば鍵盤に傷がつき、なによりも君の爪を痛めてしまう可能性があった。
「紅ちゃん……切るよ」
君からの返答はなく、かと言って、拒絶するような素振りもない。
その無言を承諾の意として受け取った僕は、君の指を左手に載せた。
パチリ、カチリ。
硬質な音が生まれ、伸びた爪の先を切り落としていく。
楽譜の反復記号のように何度も繰り返し響くけれど、そこに楽曲のような規則性や物語性はない。
この数週間、視界に入っては心を苛み、何度となく僕を嗤っていた──白い三日月。
その残骸が、爪切りの内部に向かって、抵抗することなく飲み込まれていった。
丁寧に切り揃えた爪の先端に、今度は爪やすりをかけて、断面の歪みをひとつひとつ整える。
「──願掛けを……していたんだ」
君がポツリと呟く。
それは譫言のようで、僕の反応を待っている風でもない。
「美沙子の体調が良くなって、また一緒に演奏できると思ってた。でも、美沙子は『これ以上音楽を嫌いになりたくない』って……泣くんだ」
僕は、君の爪の形を整えながら、その独白に静かに耳を傾ける。
「何があったのか、美沙子は教えてくれない。でも『音楽を嫌いになりたくないから、音楽をやめる』って──わたしにはその意味がわからない。わかるのは、葵衣との遣り取りで、美沙子が傷ついたことだけ」
そこで言葉を詰まらせた君は、嗚咽を洩らしながら、その声量を上げる。
「でも……っ でも、わたしは、音楽が好きだ! 美沙子のヴァイオリンも、葵衣の演奏も……大好きだ──三人の時間が、大好きだった。でも……っ」
僕の掌の上に置かれた君の手が、微かに震えている。
「克己くんが送ってくれた昔の写真を見て、わたしはまたピアノを弾きたくなって……苦しかった。だけど美沙子は『ごめんね』って、悲しそうに笑うんだ。美沙子は今──ヴァイオリンに触れることができない。『弾こうとすると身体が震えるの』って……わたしも今日、初めてそのことを知った。親にも……話していないらしい……」
君は心を落ち着かせようとしたのか、深く息を吸い、その後肺の中の空気をすべて吐き切った。
「美沙子が『今すぐ克己くんを追いかけろ』って……『紅子は音の世界に戻って』って──本当は美沙子も弾きたいくせに……そう言って、送り出してくれたんだ」
君がピアノを弾かずにいた理由。
それは『音の世界』に、背を向けたからではなかった。
願掛け──大好きなピアノ演奏を断つことで、美沙子が戻ってくることを切に願ったのだろう。
「わたしが美沙子の演奏を大好きなように、美沙子もわたしのピアノの音色を好きだと言ってくれた。でも、今は……」
常に一緒に過ごし、お互いの演奏を高めあった美沙子は、君の隣にいない。
「わたしは……『音の世界』で、一人ぼっちだ……」
小刻みに震える、君の声。
伏せた睫毛の隙間には、寂しげな眼差し。
僕は君の爪と指を静かに見つめ、そして──手を伸ばした。
「克己……く……ん……!?」
慌てたような君の声が音楽室に響いたあと、僕たちの周囲には静寂が訪れた。
僕がとった行動は、君を驚かせるような衝動的なものだったに違いない。
それでも、そうしたかった。
──僕は唇で、君の指先に触れた。
それは、幼い頃からつづく君の習慣。
演奏後に必ず行う『感謝の儀式』を真似たもの。
弾くことを我慢し、孤独に耐えつづけたその指に、労いの気持ちを送りたかった──ただ、それだけ。
…
口づけた指先は、昔と変わらぬ君の色。
──薄紅の色だった。
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=僕の役目=