第25話 君の爪、君の指3 =精一杯の想い=
職員室の隣にある購買部で、僕は金色の校章を受け取った。
学ランのボタンと同じく、その裏面には生徒のフルネームが彫られている。
紛失したことに気づいてから学校に連絡をし、再発行願いをメール提出したのは中等部の卒業式当日。
氏名刻印入りの校章が届いた旨、学校側から連絡をもらったのは昨日のことだ。
約二週間ほどで完成し、高等部の入学式までに間に合ったのは本当に助かった。
代金はWEB決済時に支払い済みだったので、学生証で本人確認後、刻印にも問題はなかったので受領証にサインをした。
室内の鏡を貸してもらい、受け取った校章をブレザーの胸ポケット上部につける。
二度も紛失するわけにいかないので、このまま制服につけてしまえば外れることもないので安心だ。
購買部を出た僕は、職員室前の廊下に並んだ机をつかい、一旦荷物を整理することにする。
職員室の入口近くには生徒のための質問スペースが設けられているので、パーティションで区切られた自習席のひとつに入った。
他の席からはボソボソという話し声が聞こえる。
演習問題の解答方法について、数人の生徒が教師に質問をしているようだった。
遠くからは、運動部の掛け声が聞こえる。
吹奏楽の金管楽器の音も、どこからともなく響いてくる。
窓の外に目を向けると、教室棟で活動している文化部や同好会に所属する生徒の姿も目に入る。
けれど、春休み中ということもあって、登校している学生の数は多くないようだ。
廊下を歩く生徒の姿もまばらで、職員室前の此処も通常時と比べて閑散としていた。
ヴァイオリンのレッスン時間まで、図書館で自習をする予定だった僕は、荷物の整理を終えたあとパーティションから抜け出した。
ちょうど、その時だった。
「克己くん! やっと……見つけた!」
息せき切って走ってきたという体の君が、肩で息をしながら僕の目の前に現れたのだ。
「紅……ちゃん?」
驚きのあまり、それしか言葉を出せなかった。
君が追いかけて来るなんてまったくの想定外で、僕は目を見開いたまま、その姿を見つめることしかできずにいる。
「電話……何度もかけたんだ。だけど、ずっと繋がらないし。とりあえず購買に行くって言っていたから、学校に来てみたけど見つからなくて……っ こんなところに……いたとは──」
呼吸が荒いので、言葉も途切れ途切れだ。
その科白から、君が美沙子の自宅から僕を追いかけてきたことは伝わった。
──どんな理由で、君は、僕を探していたのだろう。
「なんで、わたしからの電話に出なかったんだ!?」
君の目も、その口調も、僕を責めているような気がした。
電話に出なかった僕に腹を立てているだけ?
それとも、僕が先ほど送り付けた写真について── 一言文句を伝えに来たのだろうか?
僕の送った写真が、君と美沙子の心を乱すことはわかっていた。
もしかしたら今から、絶交でも言い渡されてしまうのだろうか?
あの写真を送った時点で、美沙子を含めた僕たちの関係に楔を打ち込むことになるかもしれない──そんな恐れもあった。
だから月ヶ瀬夫人に写真を送る許可をもらったあとも、送るべきが、止めるべきかと悩み、なかなか送信ボタンに触れることができなかったのだ。
「ごめん……スマホの着信音を、消していたんだ」
──怖かったから。
楽器を抱えて笑いあう幼い頃の僕たちの写真。それを目にした君と美沙子が、どんな反応を返してくるのか──それを知るのが怖かった。
自分で送ったくせに意気地がないと言われるかもしれない。でも、送信ボタンを押す指が震えていたのは事実。
僕は、それ以上、何も言えなかった。
唇を噛み、ただ黙って、君の次の言葉を待つことしかできずにいる。
「克己くんの、大馬鹿者! 折角……折角わたしが我慢していたのに……っ わたしだって弾きたいんだ! あの頃みたいに、みんなで笑って。でも……っ でも……! 美沙子も葵衣も……っ」
言葉を詰まらせ、俯く君。
その双眸から、突然──透明な水晶を思わせる涙が零れ落ちた。
重力に逆らうことなく落下したそれは、床に打ち付けられると、そのまま儚く砕け散る。
美沙子と葵衣が消えた『音の世界』。
孤独と戦い、独り、耐えていた君。
あとから後から流れる涙は、君の心の澱を──その悲しみを、さらけ出すための引き金になったのだろう。抑圧されていた感情が自由を得た反動なのか、一度流れ始めた涙は止まらなかった。
溢れる涙に、君自身が戸惑っているように見え、僕は躊躇いながら君の前に掌を差し出す。
この手を取ってくれるだろうか。
それとも拒絶されてしまうのか。
それでも──
「──それでも……僕は君に──あの頃の気持ちを……ピアノを好きだと言って笑っていた昔を、思い出してほしかった。戻ってきてほしかったんだ──『音の世界』に。今は……」
今は──僕しか、いないけれど……。
差し伸べた手を見つめたまま動かない君。
僕は意を決してその腕をつかむと、職員室へ足を踏み入れた──目的の人物を探すために。
生徒会顧問の先生を室内に探し、その姿を見つけた僕は、泣き止まない君を連れたまま進んでいく。
「小清水先生、音楽室の使用許可証をください」
いつもより強い語気で、許可をとる僕。
その傍らで、しゃくり上げる君。
僕たちの様子を目にした先生が、一瞬気圧される。けれど、僕の目を見たあと静かに頷くと、鍵を借りるための手続き用紙をファイルから取り出してくれた。
もしかしたら、僕の日頃の行いの良さも手伝ったのかもしれない。
鍵はすぐに手に入り、先生からは「鷹司、あまり無茶なことはするなよ」と声をかけられる。
先生の言葉にしっかりと首肯した僕は、許可証を出してもらえたことに対する御礼の言葉を残し、職員室から退出した。
自習スペースのパーティションから、数人の生徒がチラチラとこちらを見ていたが、それには目もくれず、君の手を引いて早足で廊下を進んだ。
泣き続ける君の、目と鼻先は、既に薄紅色に染まっている。
僕の掌と、君の掌をあわせ、隙間なく繋いだ。
絡めた指が重なるが、それでもどこか物足りなさを覚えた僕は、君の身体をもっと近くに引き寄せる。
僕ら二人は人目も気にせず、手を繋いだまま校舎の中を進んだ。
「弾きたいなら……弾けばいいんだ! 僕はまた聴きたい──君のピアノを。君が……君の音色が──好きだから」
それが、今の僕が口にできた精一杯の想い。
──僕の言葉は、君の心に届くだろうか。
次話
君の爪、君の指4
=触れる儀式=