第24話 君の爪、君の指2 =僕を嗤う、白い月=
「はい。寄こしなさい」
月ヶ瀬邸に到着すると、制服姿の美沙子が待ち構えていた。
彼女は開口一番でそれだけ言うと、掌を僕の目の前に差し出した。
「えっと……何を? 手土産はさっき、おばさんに渡したけど?」
僕は首を傾げて、美沙子の手をマジマジと見つめる。
「は? 何言ってるのよ。ボタンよボタン──学ランの!」
そういえば母も「紅子ちゃんと美沙子ちゃんに渡したら」と言っていたことを思い出す。
やはり、それは大切なマナーだったのかと、母の助言を無視してしまったことを反省する。
「ああ、克己くんのボタンは、全部奪われたらしいぞ? まるで猛禽類の大群に襲われる子ウサギのようだったと聞いている。皆が口々に、怯える姿でさえ可愛かったと褒めていた──わたしは見ていないがな」
猛禽類の大群? 確かに言い得て妙だ。
でも、僕が子ウサギとは聞き捨てならない。
身長だって170cmを越えているし、まだまだ伸び盛りだ。
いくらなんでも子ウサギにしては大きすぎると思うのだ。
しかも、怯える姿を可愛いなんて……絶対に褒め言葉ではない。
いや、それよりも──
「紅ちゃん、どうして知っているの? あれは何だったの? 何か知っているなら教えて」
新手のいじめなのかと思うと、新学期を迎えるのが恐ろしい。
そう吐露した途端、美沙子から蹴りが入った。
「天然か! この馬鹿者! 仲良しの友達や彼氏彼女にボタンを渡すのが、我が校の伝統。それを知らないとは言わせないわよ」
「ええ!? そんなの初耳だよ。あ! でも、じゃあ僕、嫌われているわけじゃなかったのか。それならよかった」
心底ホッとし、安堵の息がもれる。
「嫌われているとか、どうしてそんな後ろ向きな考えが浮かぶのか謎すぎる! え? ちょっと待って。じゃあ、克己くんのボタンは全部誰か見知らぬ人間の手に渡っているってこと? 知らなかったなら仕方ないとは言え……せめて紅子には渡しなさいよ。まったく甲斐性がないんだから!」
「ご……ごめん。本当に知らなくて。でも、母さんが予備があるって言っていたから、今度二人には持ってくるよ。それでいい?」
「おばさま、ナイス! ファインプレー! じゃあ、次回必ず持ってきてね。あ! でも学校では話しかけないでよ。恨まれたくないから」
「あははっ 『克己サマ』はみんなのモノという暗黙の了解があるらしいからな。たしか……『抜け駆け禁止で、愛でるもの』だったかな? 人気者は大変だな」
克己サマ?
人気者?
いや、どちらかというと常に遠巻きにされ、疎外感の強かった中学校生活だ。
抜け駆け禁止で愛でるもの? そこまでくると意味がわからない。
おそらく、二人とも、僕と同じ『克己サマ』という人間と取り違えているのだろう。
同名の人物だというのに、僕との扱いの差に寂しささえ覚える。
いや、寂しいとは言っても、完全に孤立していたわけではなく、仲良くしている男友達だって数人はいる。
生徒会の面々も、僕と普通に話してくれた。
だから、僕は一人ぼっちではない。
それに卒業式の日のアレも、新種のいじめでないのなら、それでいいと思うことにした。
三人で会話を続けていると、美沙子の母親がお茶を持って現れた。
美沙子が月ヶ瀬夫人にお願いして、三人並んだ制服姿の写真を撮ってもらい、それぞれの母親宛にメール添付する。
「ミッションコンプリートだぞ!」
君は、誇らしげに胸を張った。
母からはすぐに返信があった。
そのリプライには添付ファイルがついていた。
気になって開いてみると、そのファイルは数年前の──小学生の頃の僕たち三人が並んだ、懐かしい写真だった。
場所はホテル『天球』、ガゼヴォの森──『クラシックの夕べ』滞在中に撮影したもののようだ。
その思い出の写真の中には、分数サイズのヴァイオリンを抱える僕と美沙子、そして、楽譜を抱きしめる君が仲良く寄り添い、満面の笑みを見せていた。
…
制服姿の写真撮影会の後、僕たち三人の集まりは勉強会に姿を変えた。
新学期早々に実施される、校内実力テストに備えるためだ。
二時間ほど自習をし、時々君と美沙子からの質問を受けては一緒に解き、その解説をしながら学習を続けていると、いつの間にかお昼の時間になっていた。
月ヶ瀬家で昼食をご馳走になり、更に一時間ほどの勉強を経て、僕は帰宅する旨を二人に告げた。
紛失してしまった校章を受け取りに、学校の購買部に行く必要があったのだ。
ヴァイオリンのレッスンの前に余裕を持って入手し、その後のレッスンの時間までは図書館で過ごすつもりだった。
僕はひとり──月ヶ瀬家の玄関を出て、駅へと向かう。
スマートフォンを握りしめ、母が添付してくれた子供の頃の写真を見つめる。
何度も迷った。けれど、君と美沙子にその写真を転送する心を決める。
辞去の挨拶をした際、月ヶ瀬夫人にもその写真を美沙子に送る了承も得ている。
それでも、本当に今の二人に送信していいものか、最後の最後まで迷っていたのだ。
僕は深呼吸を繰り返し、意を決して、送信ボタンに触れた。
写真のみを送ったメールには、メッセージをつけなかった。
その写真を目にした二人の少女は、過去の僕たちの時間に──何を思うのだろう。
今日の勉強会の最中、ペンを持つ君と美沙子の指先に、何度も目が行った。
二人の両手の爪先には、楽器に触れていないことを暗に示す、白い三日月の姿があった。
酷薄な真昼の月は、僕を嘲笑っているかのように、その存在自体を主張していた。
次話
君の爪、君の指3
=精一杯の想い=