第23話 君の爪、君の指1 =真昼の三日月=
君と待ち合わせをしたのは、美沙子の自宅のある沿線の最寄り駅。
改札を通り抜け、いつもの場所に立って君を待つ。
少し早めに着いた僕は、改札前の壁際で読書をしながら時間を潰すことにした。
しばらくすると電車の到着を告げるアナウンスが流れ、改札口に向かって人波が押し寄せる。
約束の時間も近づいたので、その人の流れに目を向けると、雑踏に紛れて君が現れた。
改札正面の壁に僕を見つけた君は、手を振りながら小走りでやってきた。
なぜか君は中等部の制服を着ている。
僕は開口一番で質問を投げかけた。
「紅ちゃんも午後は学校に行くの?」
春休み中の月ヶ瀬邸訪問時、僕たちはいつも私服を着ていた。
今日に限って、二人揃って制服を着用している偶然に驚き、「おはよう」の挨拶ではなく質問が口をついてしまったのだ。
だが、会話を続けるうちに、君が制服を着ていたのが偶然でないことが判明する。
──犯人は、僕の母だった。
「雪ちゃんからの指令が、晴子とわたし宛に届いた。克己くんが高等部の制服で向かったから、美沙子と一緒にサンドイッチして『両手に花』写真を送ってくれって。なんだか面白そうだったから、ちょっと便乗してみたんだ。晴子も、折角だからみんなで制服を着たら、と言ってノリノリで準備してくれた」
雪ちゃんとは、鷹司雪乃──僕の母だ。
声楽家としての仕事では旧姓を使っているので、世間一般には千原雪乃といった方が通じやすい。ちなみに柊晴子さんも、ピアニストとしての境野晴子名で呼んだほうが音楽界での知名度がある。
君はスマートフォンを開くと、母から送信された指令メールを僕に見せてくれた。
メッセージをスクロールした最後に、先ほど撮影したばかりの僕の写真が添付されていることに驚く。
「母さん……」
母の所業に呆れ、僕は頭を抱えた。
いくら親子とは言え息子の写真を勝手に送るなんて、肖像権の侵害もいいところだ。
「安心してくれ、美沙子にもわたしからこのメールを転送しておいた。だから準備は万端だ」
「紅ちゃん……僕、まったく安心できないんだけど……」
晴子さんと母は昔からの友人だったけれど、君と僕の母もなぜか気が合うらしい。
こうやって時々、三人揃って遣り取りをしては、阿吽の呼吸にて僕を困らせて楽しんでいる節も見える。
もはや趣味と言ってもいいのかもしれない。
──そうか……君は、僕の作り笑いの写真を、美沙子にも転送したのか。
このあと、美沙子には色々と弄られる予感しかしない。
僕は遠い目になりながら、乾いた声でハハハと笑った。
「じゃあ、克己くん、行こうか?」
君は、こちらに腕を伸ばすと、僕の目の前でその掌を開いて見せた。
「……お手?」
僕は首を傾げると同時に、君の掌の上に右手を置いてしまった。それは、ほとんど条件反射だったように思う。
君が何をしたいのかわからず、僕は黙ってその手を見つめた。
おそらく僕の眉間には皺が寄っているのだろう。
しばらくすると、君が突然ブフッと吹き出した。
「あははっ 克己くんは犬なのか? 違う違う──兄妹ごっこ! 今日も、この前の車の中みたいに」
君は僕の手をしっかり繋ぐと、この腕を引っ張りながら、駅の階段を進んでいく。
その行動に僕は抵抗せず、まるで母親に手を引かれる子供のように従った。
──兄妹ごっこ。
本物の兄妹のように走り回った十年前。
あの頃の無邪気な君の笑顔を心に描くと、途端に胸が苦しくなった。
今の君の翳りのある微笑とは、あまりにも違い──あの夏の日の君は、キラキラと輝いていたから。
太陽のような満面の笑みを見せてくれた、幼い頃の君。
その眩しい印象は、今でも僕の胸の片隅に棲んでいる。
一見すると、僕の目の前で朗らかな声を響かせる君は、昔と変わらずこの時間を楽しんでいるようにも見える。
けれど、君が無理をしていることくらい、僕にだってわかる。
心配をかけまいと、はしゃぐ姿。
陽気さを装う言動。
そのどれもが、僕を安心させようと無理をしているのだ。
僕だって、何も考えずに、君のことを見てきたわけではない。
あの夜──車の中で手を繋ぎ、弱音を吐いた行動を、君は……後悔しているのだろうか?
繋いだ指先は氷のように冷たかった。
その手を握り返した僕は、前を歩く君の腕を隣に引き寄せ、二人で肩を並べて月ヶ瀬邸までの道のりを歩いた。
…
「楽しく弾くことができた御礼なんだ」──そう言って、自分の指先に唇を押し当てていた出会った日のの君を思い出す。
花が綻ぶような笑顔を見せ、演奏できた感謝を口づけに代えて自らの指へと贈るその姿──それは、幼い夏の日に目にした、幸せの光景。
ピアノを弾くこと自体が楽しいと、その歓喜を身体全体で表現した君は、もうどこにもいないのだろうか?
僕が触れた君の指先には、伸びた爪が未だ切られることなく留まり続けている。
半月型のその爪先は、真昼の空に浮かぶ白い三日月のように見えた。
次話
君の爪、君の指2
=僕を嗤う、白い月=