第22話 ひと足早い、春休み2 =制服騒動=
中等部の制服は、男子が学ラン。女子はセーラー服だ。
高等部に進むと、男女共にブレザーへと変わる。
二月末に学校で採寸をしたものが、真新しい制服となって自宅に届くのは三月の彼岸を過ぎたころ。
朝方届いた制服を試着した僕は、サイズと着心地を確かめていた。
学校帰りに楽器のレッスンもあるので、ヴァイオリンを構える姿勢をとり、さまざまな角度で腕を動かしてみる。
──引っかかりも、もつれるような違和感もない。
どうやら問題はなさそうだ。
動きやすさの確認が済んだところで、階下から母の声が届いた。
「克己、新しい制服はどう? 問題なかったら、中等部の制服を持ってきてちょうだい。クリーニングに出して保管しておきたいから」
壁にかけてあった学ランを手にした僕は、ふぅと深い溜め息を落とした。
正確には、学ランだったもの──と言った方が正しい。
卒業式が終わってから、既に二週間が過ぎようとしているのだが、義務教育が終了したあの日は、僕にとって──厄日だった。
最後のホームルームも済んだ僕は、級友たちと「また入学式で会おう」と言葉を交わし、父兄の待つ教室に向かうため廊下に出た。のだが、そのまま中等部下級生と高等部上級生の男女に空き教室へと連行されたのち、学ランのボタンを奪われたのだ。
自宅に帰ってから発覚したのだが、胸元にあった金色の校章も無くなっていた。その校章のあった場所には、むしり取られたような形跡もみつかった。
なぜ僕が、こんな目に遭わねばならないのか、まったく見当もつかない。
しかも、この追い剥ぎ騒動のなかにあっても級友や生徒会役員の仲間たちは「宿命だ。許してやれ」と言って、誰一人として助けてくれなかったのだ。
僕に人望がないのは元より承知していたが、見捨てられたような気持ちになり、かなりショックを受けた卒業式当日だった。
精も魂もつき果てたのち、卒業生の父兄が待つ教室に向かうと、父は唖然とした表情を見せ、母は目を丸くしたあと、なぜか楽しそうに笑い始めた。
声楽家の母の声はよく通るので、大きな教室内にその笑い声は高らかに響いていたことを覚えている。
息子の大惨事の中にあっても母は動じることなく、どこか上機嫌だった。
「さすがは我が息子、なかなかやるわね。予備のボタンが三つ家に残っているから、紅子ちゃんと美沙子ちゃんにもあげたら? 無事卒業できましたよの報告に」
父の運転で自宅に戻るなか、助手席に座っていた母はそう言ってから後部座席を振り返り、僕にウィンクまでしてきた。
「……紅ちゃんと美沙ちゃんに、ボタンを?──それも……何かのマナーなの? なんでみんなして、僕のボタンをむしり取るんだよ……誰も助けてくれないし。これって、新手のいじめ? もう……本当に疲れた」
ぐったりしながら車の座席で目を閉じる。
「克己……あなた、本当に何もわかっていないの? お母さん、なんだか急に、不安になってきたわ……」
…
今は母の言う、意味のわからないマナーに則って、二人にボタンを渡している場合ではない。
母が呑気にそんなことを口にできるのは、君と美沙子の状況を知らないからだ。
そうと理解してはいるものの、僕の心は穏やかではいられない。
先日、君の自宅に連絡し、母親である晴子さんと話をした。
──やはり君は、ここ暫くの間、ピアノに触れていなかったのだ。
晴子さんとの電話から、既に数日が過ぎている。
君は再び、ピアノを弾いているのだろうか。
僕は、君の奏でる曲を聴きたいと願っているのに、もしそれが叶わなかったら?──そう思った瞬間、今まで理解できなかった君の気持ちが、少しだけ垣間見れたような気がした。
僕が、君のピアノの音色を恋しく思うように──君も美沙子のヴァイオリンの調べを、恋しく思っているのだ。
親しい友人と共に音楽を奏で、音を重ねる喜びを知った君。
けれど今、君の『音の世界』には、美沙子はおろか葵衣もいない。
仲間を失った世界でどうしていいのかわからず……君は独り──身動きができずに、佇んでいるのかもしれない。
もしも君が、音楽の世界に背を向け、戻って来なかったら?
ひと月ほど前の雪の降る夜、電話越しで聞いた、君のか細い声は今でも耳に残っている。
『美沙子が……戻ってこなかったらどうしよう。音の……世界に』
今になってやっと、あの時の君の気持ちが理解できるなんて──
僕にとって、美沙子がヴァイオリンから離れたことだけでも充分な衝撃だと言うのに、それだけでは飽き足らず──君も美沙子に殉じるように、『音の世界』から去ってしまったら?
心の中を、空虚な風が吹き抜ける。
その風は冷気を伴い、僕の心を凍らせようとしているかのようだ。
僕は、目を閉じて首を横に振った。
不安になっていては駄目だ。
弱気になり、守りに入っていては、それこそ何も始まらない。
考えよう。
君がまた、笑顔でピアノを奏でられるように。
──僕は君に、何をしてあげられるのだろう。
再び溜め息をついた僕は立ち上がると、手にした学ランを持って階下の居間へと向かった。
「母さん、これ、中等部の制服。どこに置けばいい? あと、高等部のブレザーは丁度いいみたい」
「あら、よかった。それにしても……ブレザーになった途端、凛々しく感じるわね。似合っているわよ。ああ、それから、中等部の制服は玄関にある紙袋の中に入れておいて」
スマートフォンを取り出した母が「こっちを見て」と言ってから、僕の制服姿を撮影する。
母は、ことあるごとに「記念よ」と言っては、写真で思い出を記録するのが好きな人だ。
一瞬だけ、面倒くさいなと思ったのが顔に出てしまったようで「その制服の出資者は誰? はい、笑って!」と言われ、渋々つくり物の笑顔を見せた。
数枚写真を撮って満足したのか、母は時計を見て時間の確認をする。
「克己。そろそろ時間じゃない? 今日は紅子ちゃんと一緒に、美沙子ちゃんのお家に行く約束があるんでしょう?」
「うん。そろそろ行ってくる。午後は学校の購買に寄ってくる。そのままヴァイオリンのレッスンも済ませてくるから」
「ああ、そういえば校章も無くなっちゃったから注文していたんだものね。じゃあ、今日はそのまま制服で行くの?」
「うん。学校に行くから、そのつもり」
銀色のヴァイオリンケースを背負い、黒の革靴を履いて外に出ると、鋭い風音が僕を迎えた。
三月も下旬だと言うのに今年の冬将軍は未だ去る気配はなく、桜の蕾も硬いままだ。
寒風が吹きすさぶ中、白い息を吐いた僕は、駅へとつづく道に足を一歩踏み出した。
次話
君の爪、君の指1
=真昼の三日月=