第21話 ひと足早い、春休み1 =それが示唆する事実とは=
中等部の卒業式が近づく三月上旬となった。
美沙子はその後も登校することなく、君と僕の月ヶ瀬邸訪問は続いていた。
月ヶ瀬家に通い始めて三週間が過ぎた頃、「無事進級が決まった」と美沙子本人の口から報告を受けた。
コンクール及びヴァイオリンの話題は禁句だったが──それ以外の話であれば、美沙子は僕たちと言葉を交わすようになっていた。
食事を摂るようになってからは体調もだいぶ回復し、顔色も以前より良くなった気がする。
「出席日数は微妙だったけど、成績は優秀だったからね。やっぱり勉強はしておくものだわ。あとは……両親のおかげかな。寄付金もかなり納めていたみたいだから、その影響力も大きかったのかも」
──と、美沙子。
確かに彼女は日本を代表するグループ企業のご令嬢。学校側の運営上、無視できないほどの影響力を持っているのは間違いないだろう。
美沙子は「四月からは学校に行くから」と、君と僕に約束してくれた。
月ヶ瀬家からの帰りの車中、「葵衣は学校を休んでいて電話も繋がらない」と君が心配していた葵衣については、その後間もなく家族の仕事の都合で海外へ転居したようだ。
「葵衣は何も言っていなかったけど、引っ越しの件は以前から決まっていたんだと思う」
君はそう呟いていたが、葵衣の為人を僕自身が知らないこともあって、二人の間で葵衣に関しての踏み込んだ会話は続かず、その後も彼女の話題がのぼる機会はなかった。
目下の最優先事項は、美沙子が心身共に健康になること。
美沙子の前で、音楽の話題に触れないことが一番の近道だったこともあり、君と僕、それから美沙子の両親を含めた見守る側は、時が過ぎて彼女の心が落ち着くのを静かに待っている状況だ。
それ故に、真相は藪の中。
僕自身も、二人の少女の間で何が起きたのか、気になりはした。だが、「女の子同士の付き合いは複雑だから」と、以前母が口にしていたこともあり、異性である僕にはわからない世界もあるのだろうと深く追及することなく、時間だけが過ぎていった。
そして気づけば、僕にとって色々な意味で受難となった卒業式が終わり、春休みに突入したのは、昨日のこと。
僕は中等部の卒業学年ということもあり、在校生よりもひと足早く春休みに入ったばかり。君と美沙子については、残り一週間ほどしてから春休みを迎えることになっている。
既に長い休暇状態の美沙子は、勉強の遅れを取り戻すべく、自宅にて勉学に励んでいるようだ。
美沙子宅を訪問したときに彼女の勉強をみることもあったが、本人が成績優秀と自ら言うだけあって、新たなことを学んだ先から理解していく様には舌を巻いた。地頭も相当良いのだろう。
美沙子が不登校となったとき、復学後に学校の勉強についていけるのか──と、僕は勉学面についても心配していた。
都内有数の難関校として有名な僕たちの通う一貫校は、進度の早い授業と課題の多さで通塾せずとも国公立大学への進学率にも定評があるのだ。が、その反面、授業についていけずに脱落し、転校していく生徒も年に数名現れる。
だが、美沙子に関しては、勉学面での心配は杞憂に終わった。
君に聞いたところ、秀才揃いの生徒の中でも、美沙子は常に学年トップの座を守り続けた才媛だったようだ。
ひと月授業に出席せずとも勉強で遅れをとる心配自体がないこともわかり、彼女の両親が不登校にも慌てることなく、娘の心の回復を寛容に見守るに至った理由の一端を、僕はその時初めて知った。
最近は美沙子の心もだいぶ落ち着いたようだ。
半日登校の期間に突入した君も、夕方遅くの時間帯に月ヶ瀬邸へ訪問することも無くなった。
それなのに僕は、見舞いの付き添いを未だに続けている──その理由は、君の様子だ。
月ヶ瀬家では笑顔を見せ、声を出して明るく笑う君。
幼い貴志をかまって遊ぶその姿は、傍から見れば本当に楽しそうに見える。
けれど、その帰宅時には、先ほどの態度は鳴りを潜め、虚ろな眼差しを見せるようになった。
どうしてなのかは分からない。
けれど──美沙子が元気を取り戻していく毎に、君は少しずつ俯くようになった。
その原因を見つけることができずにいた僕は、何度か君に「どうしたの?」と質問をした。だが君は、ただ微笑むだけ。
そして決まって「なんでもない。克己くんは気にしすぎだ」と君が返答し、そこで二人の会話は終わるのだ。
本当に、単なる僕の気のせいなのかもしれない。
それでも確かめたいことがあり、僕は意を決して自宅の電話を取った。
連絡先は、君の家。
君の母親が自宅にいることを祈ってボタンを押す。
平日の午前中、君はまだ学校へ行っているであろう時間帯だ。
呼び出し音が三回鳴ったあと、受話器の向こうから、晴子さんの声が届いた。
簡単な挨拶を交わし、僕はすぐに本題を切り出すことにする。
「少し気になったことがあって、今日は連絡させていただきました──紅ちゃんは最近……ピアノを弾いていますか?」
それは、小さな違和感から始まった出来事。
細部まで注意していなければ、見逃してしまいかねない君の変化。
今まで、ピアノを弾くために常に手入れをされていた君の両手の爪──そのすべてが、美沙子が回復を始めると同時に、徐々に長さを増していったのだ。
つまり、それは──
君がピアノを弾いていない事実を、示唆するものだった。
次話
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=制服騒動=