第20話 雪雲4 =繋いだ手=
月ヶ瀬邸に、君と共に通うようになってから、一週間が過ぎた。
美沙子はベッドの上に座って、静かに君の話を聞いている。
君が語るのは、学校であった今日の出来事。
僕の知らない、二人の共通の友人の話題がのぼるけれど、美沙子からの反応はない。
美沙子の母親・月ヶ瀬夫人の話によれば、最近は少しずつ食事を摂るようになったらしい。
たしかに、点滴を受けていたあの雪の日よりも、顔色は幾分良くなった気はする。が、体調は万全とは言えず、その表情には陰がさしている。
長居をして美沙子を疲れさせてもいけないので、毎日の見舞いも短時間で切り上げるようにしている君と僕だ。
今日の面会を終え、美沙子の部屋から退出したそこには、美沙子の幼い弟──貴志が待っていた。
「アカ、克くん、今日は美沙、お話した?」
君は目を閉じて、首を横に振る。
美沙子からの返答はなく、会話はこちらからのみの一方的なものだった。
「そうなの……」
落ち込んで肩を落とす貴志は、もうすぐ4歳になるという。
君の名前を『紅子』と発音するのが難しいのか、『赤』と呼んでいるようだ。
彼はなぜか、いつも君を警戒し、僕の足元に隠れていることが多い。
懐いてくれる嬉しさと、子ども特有の仕草の可愛らしさに、僕は彼の頭を優しく撫でた。
その様子を目ざとく見つけた君が、貴志にちょっかいをかける。
「なんだ? タックン。わたしよりも克己くんのほうがいいのか? いまこっちに来たら、わたしが抱っこをしてやるぞ?」
君はそう言って両手を伸ばすが、貴志は僕にしがみついて離れない。
「や! タックンはアカより、克くんがいい!」
貴志は僕の手を引き、早く階下の音楽ルームへ行こうとせがむ。
お見舞いのあと、僕たちは月ヶ瀬家の音楽室で過ごす毎日を送っていた。
美沙子の母親が、月ヶ瀬家のお抱え運転手の榊原さんにお願いして、夕方になると自宅まで送り届けてくれるのだ。
榊原さんがやってくるまでの間、僕たちは月ヶ瀬家の音楽ルームで宿題をしたり、楽器の練習をするのがここ数日の放課後の過ごし方だ。
「克くん、また音楽ルームで、楽器弾いて。最近、美沙、ヴァイオリン弾いてくれないの。だからお願い」
貴志のお願いに、またしても君が横槍を入れる。
「タックン、わたしがピアノを弾いてやるぞ? だから、こっちに来い!」
君はなおも引き下がらすに、貴志を抱き上げようとする。
「や! 赤はタックンのほっぺ、パクッするから、や!」
「そうか? じゃあ、ガブッのほうがいいか?」
「や! もっと、や!」
タックンは僕から剥がされまいと、既に涙目だ。
「紅ちゃん、タックンが嫌がっているよ。反応が可愛いのはわかるけど、ほどほどにしてあげようね」
僕は貴志を抱き上げ、月ヶ瀬家の音楽室に向かった。
扉を開けると、グランドピアノ2台が目に飛び込んでくる。
壁面には分数サイズからフルサイズのヴァイオリンが整然と並び、その上に設置された棚の上には美沙子が今まで受賞したコンクールの盾と共に、複数の写真が飾られていた。
月ヶ瀬家の音楽室は、湿度に弱い弦楽器にも気遣われ、空調完備の楽器専用保管庫の役割も兼ねているようだ。
本棚が組み込まれ壁面には、様々な楽譜が並んでいる。
レコードやCDも数え切れない量が収められ、音響機器についても一般家庭ではお目にかかれないものが設置されていた。
君と僕が荷物を床に置いたところで、美沙子の母親・月ヶ瀬夫人がお茶と菓子を持ってやってきた。
夫人と君が茶菓子の配膳をしている間に、僕は貴志を連れて洗面所へ向かった。
皮膚につく油脂は弦の劣化を早めるので、それを少しでも防ぐため、僕は指先をすすいでから楽器に触れるのを習慣にしている。
貴志はオヤツを食べるため、僕はこれからヴァイオリンを弾くため、一緒に手を洗うのだ。
手についた水分をタオルで拭き終えると、貴志が物言いたげな表情で僕を見上げていた。
「克くん、あのね。アオが来ないの。美沙がいっぱい泣いたら、アオが消えちゃったの。克くんは、アオ、知ってる?」
アオ?
それは、もしかしたら藤ノ宮葵衣のこと?
「タックン、ごめんね。僕は『アオ』のこと、知らないんだ。話したこともなくて──」
そう伝えると、貴志は落胆したのか、眉を八の字に変え、俯いてしまう。
貴志との会話で、美沙子をこの状況に追いやったのは葵衣なのだと、朧げながら伝わった。
あんなに懇意に過ごしていた三人が、バラバラになることがあるなんて、信じられない思いでいっぱいだ。
ほんの半年ほど前、『クラシックの夕べ』に参加していた三人の様子を知っているだけに、なんとも言えない苦い気持ちになった。
…
帰りの車中、僕は君に、葵衣についての質問をする。
葵衣は、ここ三日ほど登校していないのだと、君は言っていた。どうやら彼女も、僕達と同じ学校に通っていることが今更ではあるがわかった。
電話も繋がらないんだと口にした君は、沈んだ様子で溜め息をつく。
二人の友人の間に『何か』があったことを感じている君。
けれど、その真相まではわからず、真実は当事者──美沙子と葵衣しか知らない状況のようだ。
この状態をどうにかしたいと思いつつも、下手な介入ができずに歯噛みしている様子が伝わった。
今年度の学校も、そろそろ終わりを迎える。
おそらく、美沙子も葵衣もこのまま登校せず、春休みに突入してしまうのだろうと君が言う。
「春になったらまた、三人で楽しく過ごせるといいのにな……」
そう呟いた君は、昏い表情を見せた。
美沙子や貴志の前では、いつも明るく気丈に振る舞ってはいるけれど、本心は不安で不安でたまらないのだろう。
君が、僕だけに見せる弱さを知り、その心を支えたいと思ったのは、同情から生まれた気持ち……なのだろうか。
「克己くん、小さい頃みたいに手を繋いでもいいか? 久々に少しだけ『兄妹ごっこ』がしたくなった」
力なく微笑む現在の君の眼差しと、幼い頃の君の笑顔──その対照的な表情が、僕の瞼の裏に交互に現れる。
幼い頃、僕たち二人は手を繋ぎ、海辺のテーマパークを駆け回った。
仲が良くて、本当の兄妹みたいだと言ったのは誰だったか。
僕は、君の手をそっと握った。
ピアノの演奏時、情感あふれる音色を紡ぐ君の手を、とても大きく感じていたはずなのに……。
いま、僕が触れた君の手は小さくて──この掌の中にすっぽりと包まれている。
「わたしは克己くんに、甘えているんだろうな。こうしていると、なんだか安心するんだ……『家族』って……本当の『兄妹』って、こういうもの……なんだろうか?」
君は、ポツリポツリと言葉をこぼしながら、目を閉じていく。
しばらくすると、規則正しい寝息が僕の耳に届いた。
人肌に触れたことで、それまでずっと張り詰めていた気持ちが緩んだのだろう。
右肩に君の重みを感じながら、僕はその寝顔を見つめた。
すっと通った鼻梁には長い睫毛の影が青く落ち、すれ違う車のヘッドライトが君の寝顔を照らす。
僕の隣にいることで、少しでも君の心が安らげるのであれば、何度でも手を繋ぐし、肩だって貸せる。
いつでも、必要なときは頼ってほしいと思う。
──この感情は、本当に同情から来るものなのか?
不明瞭であるが、やはりそれもしっくりこない。
──予兆は何度もあった。
この想いを『妹』に向けるものだと考えるには、些か大きくなりすぎているような気がする。
気のせいだと思い込むことで、蓋をし続けたこの気持ちは、もしかしたら既に──自分の手に負えないところまで、膨らんでしまったのかもしれない。
今週末は、複数話更新予定です。
次話
ひと足早い、春休み1
=それが示唆する事実とは=