第19話 雪雲3 =パワーワードと節度=
「克己? 遅かったわね。雪でダイヤが乱れているって、ニュースで見たから心配していたのよ」
自宅に戻ったのは夜八時過ぎ。
普段の土曜日であれば、先生宅でのレッスンを終え、あと二時間早く家に戻っているはずだった。
連絡もせず、帰宅時間が遅れてしまったことに今更ながら気づき申し訳なく思う。
「連絡できなくてごめん。紅ちゃんと一緒に、美沙ちゃんのお見舞いに行ってきたんだ」
「月ヶ瀬さんのところの? 美沙子ちゃん、具合でも悪いの?」
その問いに、僕は首肯する。
「コンクールでの疲れが出ているのかもって、おばさんは言ってた。あと、雪が降って暗くなっていたから、月ヶ瀬さんのところの運転手さん……榊原さんが家の前まで送ってくれたんだ。お礼の連絡を母さんのほうからも入れておいて」
母が月ヶ瀬家に電話をしている間に、祖母が夕食を温め直してくれた。
サラダを食べ、温かなシチューを口に運ぶ。
口の中でホロホロと崩れる食感を味わいながら、先ほど目にした美沙子の姿を思い出す。
彼女は、この一週間、ほとんど食事を摂っていなかったそうだ。
僕たちが月ヶ瀬家に到着したのと同じ時間帯に医者が往診に訪れていた。
眠る美沙子の腕からは細い管が伸び、平穏な日常とは異なる光景が目の前にあった。
点滴で栄養補給する、彼女の痩せ細ったその様子から、先週の演奏動画の中の輝く姿は見当たらない。
美沙子の身に、何があったのだろう。
瞼を伏せ、口を閉ざす美沙子の姿は痛々しく、君も僕も声をかけることができなかった。
君は美沙子の母親に、学校から預かった書類と見舞いの品を手渡し、また改めて訪問すると告げた。
僕もそれに倣い、赤いブーケを預け、日を改める旨を伝え辞去したのだ。
月ヶ瀬家に御礼の電話を終えた母が、僕の向かいの席に座り、お茶を口に運ぶ。
「──僕、しばらくの間、帰る時間が遅くなると思う」
母は僕にその理由を問うことなく、静かに頷いた。
「今、月ヶ瀬さんに聞いたわ。あなたが紅子ちゃんに付き添って、美沙子ちゃんのお見舞いに通うって──進学校の勉強とコンクールの両立で、疲れが出たんだろうって月ヶ瀬さんは仰っていたけど……早く良くなるといいわね」
月ヶ瀬夫人は心配をかけまいと、美沙子の本当の様子を伝えなかったことが、母のその言葉で汲み取れた。
だから僕は、美沙子の容態には触れず、お見舞いの件についてだけ口にする。
「うん。二人とも幼馴染みだし、こんな時くらいは、僕も役に立たないとね。やっぱり、心配だし……」
美沙子の体調も心配だ。
そして、君をひとりで歩かせるのもまた心配だった。
日によっては授業の関係で、遅い時間帯になることもあるだろう。暗い夜道、君をひとりで向かわせることはできない。
「高等部への内部選考も済んだし、美沙ちゃんが学校に行けるようになるまで、紅ちゃんのお見舞いに僕も一緒に行ってくるよ」
お茶のカップをテーブルに置いた母が、少々食い気味で身を乗り出してきた。
「そう。気をつけて行ってくるのよ──で? 克己。あなた、どちらのお嬢さんと、お付き合いしているの? 紅子ちゃん? それとも、美沙子ちゃん? てっきり紅子ちゃんが本命だと思っていたのに……お母さん、何も知らなかったわ」
僕は、母からの突然のパワーワードに驚き、思わずスプーンを落としてしまう。
「な……な……何を言って! 僕たち、まだ中学生だよ!? そんなこと、あるわけないでしょう!」
母は、あからさまにガッカリした表情を見せる。
「あらそう? 最近は小学生でも、彼氏だ彼女だっていう話を聞くから、てっきり」
僕は氷のように固まって、それ以降言葉がなにも出てこない。
既にかなり追い込まれているのだが、母はお構いなしで更に攻め入ってくる。
「お付き合いするような人ができたら、家族には紹介しなさいよ? あと、お母さんはまだ、あと十年位はお祖母ちゃんになりたくないから、節度をもった交際を心掛けてね。いい? わかった?」
思考停止状態に陥っていた僕は母の言葉の意味を完全には理解できず「あ……、うん? 善処しま……す?」と間抜けな返答をして、夕食を終えた。
母が言いたかった本当の意味に気づいたのは、自室に戻ったあと。
その内容のあまりの恥ずかしさに、僕は思わず叫び声をあげてしまったほどだ。
──母は釘をさしたのだ。僕に。
お付き合いをする女性が現れたとしても、軽はずみな真似はするなと。
名状しがたい衝動に駆られ、僕は自室の扉を開けて、階下に向かって抗議の声をあげる。
「そんな無責任なこと、するわけないでしょう!?」
──と。
僕の声が聞こえたのか、母が居間から顔を出す。
「克己? 何を叫んでいるの? 用事があるならこちらにいらっしゃい」
脱力した僕は「もうっ なんでもないよ」と口にして、自室へ引き返した。
次話
雪雲4 =繋いだ手=