第18話 雪雲2 =そぐわない、赤い花=
暗雲が空を覆い、逃げ出すように墜ちてくるのは白い雪。
純白の綿毛のようなそれは、水たまりに吸い込まれると、灰色を帯びた土気色に変わる。
僕は歩く足の速度を上げた。
向かう先は──君のもと。
美沙子の件も心配だったが、心の大半を占めていたのは他でもない君のこと。
常日頃、太陽のように笑う君からは、想像もできないようなか細い声──その声が耳の奥にこびりついて離れない。
もしかしたら今頃、君はひとりで泣いているのかもしれない。
想像するだけで胸が苦しくなり、僕は居ても立っても居られなくなった。
心が急く──こんなにも君のことばかり考えている自分に焦りさえ感じる。
君は妹のような存在。
だから、落ち込んだ声を聞き、こんなにも心配になっているのだろう。
そう言い聞かせたものの、このとき僕は、蓋をしていた自分の気持ちが開きかけていることに、朧げながら気づいていたような気がする。
…
先ほどの電話で、僕も君と共に美沙子の見舞いに行きたいと伝えた。
──君が心配で、咄嗟に出てしまった言葉だ。
突然の申し出に驚いていたけれど、君は同行を了承してくれた。
僕が到着するまでの間、近くのカフェで待つと約束した君と通話を終えたのは15分ほど前のこと。
見舞いに手ぶらで訪問するわけにはいかず、「何か見繕ってから向かう」と告げた僕に対し、君は美沙子の好物のプリンを準備していると口にした。
品物が重ならないよう、気を利かせてくれたのだろう。
『そうだ。美沙子は赤い花が好きなんだ。克己くんが持って行ったら、喜ぶかもしれない。花屋さんは駅の改札を出たところにあるから、すぐにわかると思う』
君の言葉通り、花屋はすぐに見つかった。
僕は赤い花の使われた小さなブーケを購入し、君の待つ店までの道のりを急いだ。
走りたい衝動に駆られるが、足元は制服の革靴だ。
積雪で白く色づいた歩道は滑りやすく、転倒する危険もあるため必死で堪える。
早足でアスファルトを踏み締め、前進を続けた先に、君の待つ店が見えた。
もうすぐ到着するとメッセージで送っていたので、僕が到着するのと同時に、店の中から君が顔を出す。
「紅ちゃん、待たせてごめん」
僕の声を聞いた君は、笑顔を見せた。けれど、その笑みからは思い詰めている雰囲気が伝わる──どこか陰のある微笑みだ。
不安な気持ちを隠せないのだろう。
…
先週末のコンクール。
君は、美沙子と葵衣の演奏を聴くために会場を訪れていたと言う。
美沙子の演奏は圧巻で、それに気圧されたのか、葵衣がほんの些細なミスをした。
音程を知り、その曲を熟知している人間でなければ気づかない位の、ミスとは言えないようなものだったそうだ。
──葵衣の演奏も聴いておくのだった。
父が見せてくれたコンクール動画は、優勝した美沙子の演奏しか聴いていなかった。その演奏の素晴らしさに、美沙子の部分だけを何度も繰り返し聴いていたため、他の参加者の動画には目を通していなかったのだ。
だから僕は、そのコンクールで葵衣が見せた演奏を知らない。
それでも二位入賞するのだから、相当完成度の高いものであったことは想像に難くない。
『クラシックの夕べ』での葵衣の演奏は知っている。
彼女の演奏を言葉に表すなら──『完璧』。葵衣の奏でた調べは楽譜に忠実で、この上なく見事で、まるで完成されたお手本のような演奏だったのだ。
コンクールで一位を獲るため、丁寧に仕上げられた珠玉の演奏とも言えた。
美沙子の自宅に向かって、二人で雪道を歩く。
僕たちの間に会話はなく、君が先導するように狭い歩道を進んでいく。
下手な慰めを掛けてはいけないような気がした。
だから僕は、ただ静かに君のあとを追った。
仲の良かった君と美沙子──二人の間でしか、わからないこともあるのだと思う。
だから僕は君を元気づけようとした言葉を、呑み込んだのだ。
「美沙ちゃんは、きっと戻ってくるよ」──等という安易な気休めを伝えることは、君に対して誠実でない気がしたから。
僕は、目の前を歩く君の傘を見つめた。
一歩、また一歩と進むたびに、真紅の傘の上には白い雪が積もり、時間の経過と共に薄紅色に変わる。
その淡い色調の上に、勢いを増した降雪が次々と重なり、時を待たずして、寂しげな雪色に染まった。
街灯に照らされた路肩の雪は陰影を濃くし、雪景色は寂しく凍える青灰色。
その中で、僕の手にした赤い花束だけが、この場にそぐわない異様な明るさを主張していた。
次話
雪雲3 =パワーワードと節度=