第17話 雪雲1 =震える声=
過ぎし、朱夏──いや、どちらかと言えば、心が鈍色に染まった今年の夏が終わった。
白い溜め息を増やす秋を飛び越え、玄い冬の気配が忍び足で訪れた。
その日──僕は寒風が吹き荒れるなか、家路を急いでいた。
下校後にヴァイオリンの先生宅でのレッスンを済ませ、既に夕闇が迫る時間帯だ。
首元のマフラーを巻き直し、屋外に出てから傘を広げる。
朝から降っていた雨は、雪に姿を変えていたようだ。
時刻は、そろそろ夕方5時を回る頃。
冬至はとっくに過ぎているが、日没時間は未だ早く、空は既に暗くなりはじめている。
しかも、厚みのある雪雲により、常に比べて夜の帳が下りるのも早い。
行楽帰りの家族連れやカップル、それから帰宅途中のサラリーマンも増え、乗り込んだ電車の中はかなり混み合っていた。
車窓から眺めた空は、重苦しい鉛色。
首都圏では、夜半過ぎからの大雪が警戒されている。
電車も早々に運休してしまうのではないかと危惧するほど、勢いを増した雪が電窓に向かって横殴りで襲いかかる。
吹雪のような降雪を目にしている周囲の人々も、早く地元の駅に戻らなければ、と気持ちが急いているように映った。
明日は折角の日曜日だというのに、積雪後の交通機関の乱れが予想されるため、外出もままならない。
生徒会行事の準備で、役員の友人達と出かける予定があったのだが、この雪の予報により敢え無くキャンセルとなったのだ。
乗り換え駅に到着し、人の流れに押されながら駅構内へと足を踏み入れる。
丁度そのとき、僕のスマートフォンが振動を始め、着信をしらせた。
──誰だろう?
そう思いながら、着信者の名前を画面で確認する。
「紅……ちゃん?」
画面には『柊 紅子』の文字が点滅を繰り返している。
君がスマートフォンに連絡をしてくるなんて珍しい。
何事かと思った僕は、慌てて通話ボタンに触れた。
「もしもし? 紅ちゃん? どうしたの?」
僕の声を耳にした君は、なぜか一瞬──息を呑んだような気がした。
『……克己くん……元気か? 用事と言うほどのことではないんだ。ただ、最近どうしているかと思って……連絡しただけなんだ』
電話の向こう側から届くのは、いつもの君の声。
けれど、太陽のように笑う常日頃の様子とは、どこか微妙に違うことが伝わってくる。
ふと『空元気』という言葉が脳裏を過ぎった。
君は、現在僕のいる駅からほど近い場所にある住宅街をひとりで歩いていると言う。
会話を進めていくと、どうやら美沙子の家に向かっている途中ということがわかった。
「美沙ちゃんの家に?」
夕方過ぎの訪問に、違和感を覚えた僕は「美沙ちゃん、どうかしたの?」と言葉を繋いだ。
『美沙子……今週はずっと、学校を休んでいたんだ。先生から預かった書類を届けがてら、お見舞いに行こうと思って』
この時期に一週間近く学校を休んでいるとなると、もしかして──
「インフルエンザ?」
『……いや、コンクール疲れで、多分──体調を崩しているんだと思う』
そういえば、先週末に開催された弦楽コンクールで、美沙子は久々に葵衣を制し、一位入賞したと聞いている。
そのコンクールは、祖父の会社が所有するホールを会場としていたため、父配下の音響関連の撮影部隊が録画を担当していた。
よって、美沙子の一位入賞の報を、僕はその日のうちに知ることができたのだ。
身内のコネになるが、編集された動画がコンクールサイトにアップロードされるよりも一足早く、僕は彼女の演奏動画を見ることができた。
そのコンクールでの美沙子の集中力は素晴らしく、音色も技術も文句のつけようのない圧巻の出来だった。
記録映像を見ているだけで、僕の心は彼女の音色の透き通った美しさに吸い込まれ、恍惚とした気分を味わったほどだ。
録画でさえその域の演奏だ。その場で本物の音色を聴いていたとしたら、どれほどの感動を覚えたのだろう。
次に美沙子が出場するコンクールがあるのならば、観客として行ってみたいとさえ思えるほどだった。
美沙子の今後を──彼女の音楽家としての未来を想像するだけで心が躍った。
月ヶ瀬美沙子は間違いなく、その名を残すヴァイオリニストに成長する。予想ではなく、それは確信だ。
そして君もまた、美沙子と同じく、その名を──柊紅子の名前を人々の心に刻んでいくピアニストになるのだろう。
音楽の申し子のような存在が、僕の身近に二人もいる。それは、僕にとって、とても嬉しいことだった。
周囲にも、彼女たちを超えたいと願い、切磋琢磨する同年代の音楽家の卵達が集まっている。それに付随して、彼らの演奏目標も自ずと高くなり、音を奏でるレベルもここ数年で上がっているのだと、何かの記事で読んだこともある。
同年代の演奏家の演奏技術を底上げをした意味でも、美沙子の功績と存在意義は大きい。
彼女が今までしてきた取り組み──仲間を激励し演奏レベルを引き上げるという方法は、低迷しつつあるクラシック音楽界にとって、新風を巻き込む良策だったようだ。
高みを目指す演奏を、音を愛する仲間と共に奏でたい──美沙子から昔聞いたその願いは今、叶えられつつあるのかもしれない。
だから僕は、君が電話の最後で口にした言葉を信じられない思いで、聞くことになる。
「美沙ちゃんが久々に優勝したコンクールの演奏、僕も聴いたんだ。もしかしたら、張り詰めていた気持ちが緩んで、体調を崩しちゃったのかもしれないね。僕も『おめでとう』と伝えなくちゃだ。まだお祝いの連絡をしていなくて──今日の夜、久々にメッセージでも入れようかな」
その僕の言葉に、君が電話越しに、小さく息を呑んだのがわかった。
──どうしたのだろう?
しばらく待っても、君からの返答は一向にない。
不思議に思い、君の名を呼ぼうとしたそのとき、か細い声が耳に届いた。
『……駄目だ』
「え? 駄目……って、ああ、美沙ちゃんが体調不良だから心配しているんだね」
僕はそう言ったものの、そんな単純な理由で出た言葉でないことはわかっていた。
それは──君の声が……震えていたから。
『美沙子が……戻ってこなかったらどうしよう──音の……世界に』
それだけ口にすると、君は急に──黙り込んでしまった。
次話
雪雲2 =そぐわない、赤い花=







