第16話 『選択肢 b. 恋の歌』
八月最終週──二学期が始まった。
僕の通う学校では、休み明けには必ず実力考査が実施される。
今日は試験最終日。科目は、残すところ国語だけ。
現代文の長文読解が終わり、古典の問題に進む。
問題用紙には色彩を含む和歌が複数並べられ、それぞれの歌はどんな心境について詠んだものか選択せよ、という設問が続いた。
和歌の出典は多岐に渡り、万葉集や古今和歌集、それから小倉百人一首など有名どころから出題されているようだ。
問題を読み進める途中で、僕の心臓がドキリと脈打ち、解答していた鉛筆の音が止まる。
『くれなゐの──』
くれなゐ──それは、君の名前の色。
その文字を見ただけで、君の笑顔が浮かんだ。
僕は頭を振って、その残像を振り払う。
その和歌を読み進めるため、文字を追った。
『くれなゐの 初花染めの 色深く
思ひしこころ 我忘れめや』
読んだあと、現代語訳を試みる。
(紅花の初花で染め上げた色のように深く染まったこの心を、忘れることなどあるのでしょうか──いいえ、忘れることなどできません)
比喩表現を使用し、反語を表す係助詞で終わる『恋情』を詠んだ歌。
答えが解っていながらも、僕は回答用紙に『恋の歌』の選択記号『b.』を記入することが──できなかった。
…
帰宅途中、友達と別れて一人になったあと、先ほど回答できなかったテスト問題を思い出す。
それと同時に、君の姿が頭の中を埋めた。
先々週のお盆期間中に参加した『クラシックの夕べ』から、ことある毎に君の姿が瞼の裏に現れては、消えず──夢の中にまで君が登場する夜が続いている。
演奏当日の君は、大人びたブルーグレーのドレスを着ていた。
今までは、明るい色合いのドレスを着用して演奏することが多かったので、その姿はとても新鮮で──僕はなぜか……直視できなかった。
君の演奏曲は、予定通り──ラヴェルの『水の戯れ』。
幼い頃、プールで水遊びに興じていた君のことを、元気な人魚姫のようだと思っていた。
けれど、この夏の演奏時の様子は──透き通る羽根を持った、可憐な水の妖精──僕の瞳には、そう映ったのだ。
普段と異なる衣装が見せた幻なのかもしれない。視覚効果だったとしても、急に大人びた君の様子に、僕の気持ちが焦りを覚えたのは隠しようのない事実。
僕の演奏会参加も六年目に入り、毎年出演する同性の友人も増えていった。
今年の滞在中の練習は例年とは異なり、君や美沙子とは別の棟を使用し、『天球』滞在中も二人の少女と過ごす時間は殆どなかった。
それは、学校だけではなく──この夏休みの特別な時間でも、君や美沙子と言葉を交わさずに過ごしたことを意味する。
それを残念に思う一方、男友達との気楽な時間も悪くはなかった。
なによりも、君に会わないことで、僕の心はどこかホッとしていたのだ。
僕の行動だけではなく、君たち二人も例年とは違った変化があった。
君の隣には美沙子がいて、それはいつもと同じ変わらぬ光景だった。が、今年はそこに、もう一人見知らぬ少女が加わり、三人一緒に行動する姿を時折目にしていた。
新たに加わったのは、美沙子が唯一勝てないと洩らしていた『藤ノ宮葵衣』。
お昼時はその三人の少女の中に、美沙子の年の離れた幼い弟が加わり、君の周囲は賑やかになっていた。
三人の少女が、幼い子供の世話を甲斐甲斐しく焼く姿は微笑ましく、宿泊客の視線も集めていた。
遠目から見た君はよく笑い、よく喋り、仲間との時間を謳歌しているように見えた。
君が楽しそうに、誰かと話をする姿が目に入るたびに、僕はなぜか胸が苦しくなった。
僕が見ていることに気づかない君。
君の姿を目で追う僕。
美沙子と初めて出会った時、彼女が僕に対して見せた嫉妬の感情は、もしかしたら、こんな気持ちから生まれたものだったのかもしれない。
僕は漠然と、そんなことを感じたのだ。
自分から話しかけるでもなく、目が合えば手を振ってお互いに微笑みあうだけ。
その時間だけが、僕の心を潤してくれたような気がする。
──君を、避けているつもりはなかった。
自分に、何度もそう言い聞かせる。
言い聞かせると思っている時点で、僕は無意識に君を避けていたことにも気づく。
でも、会って話をしたら。
その目に見つめられたら。
僕の心の中の『何か』が、完全に変わってしまうような予感があった。だから少しだけ、臆病になっていたのは確かだと思う。
行動を共にしている男友達の間でも、君と美沙子、それから葵衣の話題がよく取り沙汰された。
三人とも演奏の素晴らしさはさることながら、その容姿の端麗さは女子のグループの中でも飛び抜けていたからだ。
滞在中、何度となく三人の少女の賛辞を耳にしたけれど、その話題になると僕は決まって、貝のように口を閉ざした。
君は妹のような存在だ。
だから、皆から褒められる君を、誇らしく思えたら良かったのに──
いつか、他の誰かに奪われてしまうような気がして、心許ない気持ちに襲われたのだ。
兄妹のような関係であれば、ずっと一緒にいられるはず──今まで疑うこともなく、そう信じていた。
けれど、その考え自体が誤りなのかもしれないと、気づき始めたのはこの頃のことだったのかもしれない。
君は、美沙子と葵衣と。
僕は、同性の友人と。
人は成長するごとに、男女でうまく棲み分けし、居場所を変える生き物なのかもしれない。
性差なく無邪気に戯れ、笑い合える期間というのは、思いのほか短いことを知り──寂寥感を覚えた、苦い夏だった。
次話
雪雲1 =震える声=
かてぃんさんこと角野隼斗さんの『水の戯れ』の演奏が最近のお気に入りです。
https://youtu.be/a_IvrEvO0xI