第14話 中学最後の夏5 =黒歴史と放置=
「紅ちゃん、こんな真似、誰彼構わずしたらダメだよ。万が一、何か起きたら危ないでしょう? 君も中学二年生なんだから、しっかりしないと……本当に、他の人にはしないでね」
年上として教育的指導を与えなくてはと、渋面をつくって注意する。
冷静さを装ってはいるが、内心の激しい動揺から、声が上擦ってしまうのは隠せない。
「誰にでも? あはは、そんなことしないよ。克己くんが落ち込んでいたから、そう言う意味じゃないって教えてあげただけだ。それに今更だろう?」
「今更って?」
僕の鸚鵡返しに、君は人差し指を唇に当て、首を傾げる。
「わたしと克己くんは『家族』みたいなものだろう? それに、昔のことだから克己くんは忘れているのかもしれないが、既にキスをした仲じゃないか──口と口で! 最高の仲良しだろう?」
ニコニコと無邪気に言い放った君の言葉はまるで刃のよう。
僕の心は、既に満身創痍状態だ。
しかも、今まで自ら無理矢理封印して忘れようとしていた初対面の思い出が、唇の感触と共によみがえり、僕は慌てて口元をおさえた。
「でも、あれはっ 小さい頃のことでっ」
米国の空港で受けた、君からの歓迎の挨拶は──突然のキス。
あれは事故のようなものだったけれど、あの頃の僕たちと現在の僕たちでは、年齢も体格も、その他全てにおいて違うのだ。
あのキスのあと、少しだけ成長した僕にも、やっと唇を重ねることの意味を知る機会が訪れた。
初めてその事実を知ったときの衝撃たるや、口では言い表せないものだった。
自分が既にそれを済ませていた事実にひどく驚き、どうしていいのかわからなくなった僕は、両親に泣きながら相談したこともある。
その行動を言い訳するならば、頼れる相手が両親しか思いつかないくらいに幼い子供の頃だったから、としか言えない。
……本当にお粗末な過去だ。
そして、この親に泣きついた事実は、僕の人生における汚点──謂わば、僕の黒歴史となっていた。
だから、その記憶とともに、全てをなかったことにしたくて、錘をつけて沈めていたはずなのに──今日、ここにきての一連の出来事が引き金となり、すべてを思い出してしまったのだ。
僕は頭を抱えた。
だが、唐突に届いたピアノの音色に殴られ、今度は無理矢理現実に引き戻される。
それは、君が指鳴らしで弾き始めたハノンの音色だった。
『気を悪くしないでね。紅子は、本当に空気を読まなくて……』
先ほど、晴子さんが君を叱りつけた時の科白が、耳の奥で木霊する。
僕だけが動揺しているこの状況は、本当に置いてきぼりを喰らったような気分だ。
羞恥に揺れる僕の心など意にも介さず、既にピアノに向き合っている君。
君からの突然の放置状態に、茫然となる僕。
その対照的な様子は、滑稽の一言に尽きる。
君との初対面を果たした十年前の夏。
遊び場所を、プールからジャグジーに移動した時の記憶がよみがえる。
あのときも君は、湧き出る泡を集めるのに夢中で、僕のことなんて見向きもしなかった。
幼かった僕は少しの淋しさを覚えたけれど、今日の気持ちはその比ではなく──なぜか怒りさえ湧き出す始末。
君といると、自分の心が安定しない。
僕は、本当にどうしてしまったのだろう。
なぜ一緒にいると、こんなにも苦しくて、自分で自分がわからなくなるのか、その理由さえも思いつかない。
まるで君の掌の上で転がされ、弄ばれている気分になる。
自分の心さえ理解できないことで、情緒不安定になっているはずなのに、どうしたことか悪い気はしないと感じるこの矛盾。
僕の思考回路は錯乱状態だ。
…
君は現在候補に挙がっている三曲を、続けざまに披露してくれた。
電話で話をした時は、五曲のタイトルを口にしていたので、そこから更に候補を絞ったのだろう。
どれも素晴らしい出来栄えだったけれど、君の中ではもう『クラシックの夕べ』で演奏する曲目は、ほぼ決まっているような気がした。
「紅ちゃん、本当はコンサートで弾く曲……自分の中で、決めてたでしょう?」
そう質問した僕に対して、君は試すような、挑むような、楽しげな笑顔を見せた。
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=落胆と恋煩い=