第13話 中学最後の夏4 =翻弄と羞恥心=
身動きを取れずにいたところ、晴子さんが慌ててやってきた。
「克己くん、いま雪乃……あなたのお母さんに手土産のお礼の連絡を入れていたんだけど……マナーについての話も聞いてね。あなたが困っているんじゃないかしらと思って来てみたら……どうやら──来て正解だったようね」
フフッと口元に手を当てて、晴子さんは笑う。
防音扉を開け放ったままピアノを弾けば近所迷惑になる可能性もある。かと言って、閉めてしまったらマナー違反になってしまうという状況で、僕は究極の選択を迫られていたのだ。
晴子さんの登場によって救われた気持ちになり、安堵した僕は、困っていた心情を吐露する。
「はい。母から扉を開けておくように注意を受けていたんです。紅ちゃんがピアノを弾くときに閉めていいのかわからず……実は、困っていました」
「お気遣いありがとう。でも、克己くんなら大丈夫よ。扉は閉めてもらって構わないわ」
本当にそれはマナー違反にならないのだろうかと疑問に思ったところを、君の元気な声が重なった。
「克己くんが、わたしを襲わなければ大丈夫だ」
「紅子! もっとオブラートに包んで話しなさい」
晴子さんが、君を一喝してから僕に謝る。
「ごめんなさいね。気を悪くしないでね。紅子は、本当に空気を読まなくて……」
「あの、大丈夫です。僕……暴力とか振るったことはないのでっ」
慌ててそう伝えると、晴子さんは微笑んでから僕の頭を撫でた。
「じゃあ、克己くん。よろしくお願いするわね」
僕がソファに座るのを確認したあと、晴子さんの手によって防音室の二重扉は閉じられた。
平静さを保っていたものの、僕はかなりの衝撃を受けていたりする。
母から、僕が女の子に手をあげるかもしれないと、僅かであっても思われていたことがショックだったのだ。
──割と礼儀については守ってきたつもりだったのに。
思わず溜め息が洩れる。
「克己くん!」
突然君に大きな声で名前を呼ばれ、そちらを見た瞬間──ドンッと勢いよく押された僕は、気がつくとソファに倒されていた。
何が起きているのか理解できずに茫然とする僕。
悪戯を思いついたようで、僕の上にのしかかってくる君。
君からの攻撃とこの体勢によって、混乱の渦に足を取られた僕は、既に溺れそうな状態だ。
「違うぞ? 克己くん。なんだか勘違いをして落ち込んでいるようだから、教えてあげよう。親はこういうことを心配していたんだ。だから大丈夫! 安心していい」
そう言って、僕の腕を頭の上でおさえこんだ君は、この身体の上で完全に馬乗り状態になっている。
こんなに間近で女の子と触れ合ったことは未だかつてなく、思い起こせばキャンプファイアーでのフォークダンスで手を繋ぐのがやっとのことだった自分を思い出す。
それ故に、現状──君への対応の仕方がまったくわからない。
「え……いや、ちょっと待って。紅ちゃん、安心とか言わないで。僕が安心できないから。お願いだから、早くどいて。僕にも色々と不都合というものが……」
慌てると早口になって、饒舌になってしまうのが僕の悪い癖だ。
そんな僕を横目に、君は「役割は果たしたぞ」と言わんばかりの満足気な表情を見せたあと、あっという間に離れていく。
なんだかそれも残念な気がして、口では「どいて」と言いながらも「もっと触れていたい」と感じた自分がますますわからなくなる。
僕は頭がおかしくなってしまったのだろうか。
サッと起き上がって服を整えたものの、なぜか罪悪感だけが募っていく。
「落ち込むな。克己くん。親から、大人の男として扱われるようになったということだから、誇っていいと思う! 多分」
君の行動とその言葉に大混乱を極めた頭ではあったが、母の言った『マナー』についての真意をやっとのことで汲み取ることができた。
でもまさか、それを年下の君から実地にて示され、やっと理解に至るという不甲斐ない状況に直面するとは、思いもよらなかった。
──自分が情けない。
肩を落とすと同時に、もう子供の頃とは違う注意が必要なのだと、周囲からは見做される年齢になっていた事実にも、愕然とするばかり。
でも……でも、そんなことよりも──
間違いない。
今日は、僕の顔が羞恥心によって、君の名前の色に染まっているのだろう。
──薄紅色は、君の色だった……はずなのに。
翻弄された僕は、あまりの恥ずかしさに、両手で顔を隠すことしかできなかった。
次話
中学最後の夏5 =黒歴史と放置=
を予定しております。