第12話 中学最後の夏3 =君の口調と思春期のマナー=
夏休み──柊家の門扉の前に立つ。
微かな緊張を覚えながら、僕は玄関の呼び鈴を鳴らした。
それとほぼ同時に扉が開き、出迎えてくれたのは──君だった。
約束の時間にはまだ早い。
それにも関わらず、君の行動から僕の訪れを心待ちにしていたことが伝わり、心が弾んだ。
待っていてくれた──そのことが、とても嬉しかったのだと思う。
先日、君からの手紙が届いた報告のために柊家へ連絡を入れたあとから、僕と君は時々電話で話をするようになっていた。
お互いスマートフォンを持っているのだが、相変わらず自宅の固定電話を使い、まるで家族のような会話だ。
その話の中で、今年の『クラシックの夕べ』で弾く曲目が話題に上がり、君は候補を挙げ連ねた。
どの曲を弾くのか、凡その見当はついているのかと僕が訊ねたところ、君の返答は「まだ決まっていない」だった。
だが次の瞬間、君は名案を思いついたのだろう。
嬉々とした声で「克己くん、よかったら、どれがいいか聴いてくれ!」と言い始め、本日訪問することになったのだ。
幼馴染みとは言え、女の子の家に招かれるのは初めてのこと。粗相をするわけにもいかず、まずは人生の先輩である両親に相談することにした。
その結果、母が事前に準備してくれた水菓子を手に、柊家を訪問することができた。
なんとなく気恥ずかしかったけれど、親に相談してよかったと心底思った。なぜならば、手土産を用意するなんていう人付き合いに関する高等技術を、僕は思いつきもしなかったから。
君の母親がキッチンから顔を出したので、「お久しぶりです。今日はお邪魔します」と会釈する。
「克己くん、いらっしゃい。久しぶりね。また背が伸びて、ますます素敵になったわね」
社交辞令の挨拶に慣れていない僕は、うまく返答できず、自分の不器用さを不甲斐なく思う。
それでもなんとかお礼を伝え、話題を変えようと母から持たされた水菓子を、君の母親である晴子さんに手渡す。
着席を促された僕は、居間のソファに落ち着くと、晴子さんがお盆に載せた麦茶を運んでくれた。
そこで君が口を挟んだ。
「晴子、わたしがする。キミは座って休んでいなさい」
まるで君の父親のような口調だなと思った僕は、黙って柊母娘のやりとりを見学することにした。
「紅子。お客さんの前では『お母さん』と呼びなさい。まったくこの子ったら……父親と一緒にいる時間が長かったものだから、口調まであの人そっくりになっちゃって……女の子なのに」
晴子さんは、困ったような表情を見せる。
「日本に来る前は、身近で日本語を話すのは『父』だけだったからな。もう今更だろう。よくぞここまで喋れるようになったと、晴子は母親として、わたしを誇っていい」
「もう、紅子。少しは謙遜も覚えなさい。それと、『お父さん』と呼ぶんでしょう?」
「でも『父』は、『父と言っておけば、どこでも潰しがきく』と言っていたぞ。とても合理的だと、わたしは感心した」
君の口調が普通の女の子と違うと気づいたのは、いつのことだったか。
日本で生活する時間が少なかったので、そのためだと思っていたけれど、半分正解で半分は違ったようだ。
普段、日本語で会話をする相手が父親だけという環境下だったこともあって、自然と君の口調もどこか男性的な話し方になっていったのだろう。
君の語学習得の歴史を知ることができ、僕はナルホドと思った。
僕は君の話し方が好きだ。
その口調は、君にとても似つかわしくて、好ましく感じていたから。
晴子さんは「克己くんから頂いた水菓子を冷やしておくわね。あとで一緒に食べましょう」と言ってから僕たち二人を居間に残し、開放扉の向こうにあるキッチンへ消えていった。
君は、晴子さんの運んだトレーから、麦茶をテーブルに移動しはじめる。
配膳するときに、コップの中の透き通った氷がカランと涼しげな音を立てた。その音色だけで体感温度が下がり、爽やかな心地になる。
冷たい麦茶で喉を潤し、冷えたスイカを食べ終わると、君が「早速、聴いてほしい」と言って立ち上がり、僕のことを手招きをする。
居間を出て廊下を進むと、重い金属製の扉の前に案内される。本格的な防音対策の施されたその造りに、僕は息を呑んだ。
その金属扉の奥には、更に木製の中扉が控えている。とても厳重な造りだ。
僕は入室するのを躊躇った。
母から、注意を受けていたのだ。
「紅子ちゃんと部屋で二人きりになるときは、扉を開けておくように」──と。
首を傾げた僕に対して、母は「克己も紅子ちゃんも中学生になったからね。あちらのご両親に対する思春期のマナーよ」と言っていた。
母の意図はわからなかった。けれど、手土産を持参することさえ思いつかなかった僕だ。
それがマナーと言うのならば、守らないわけにはいかない。
母にその理由を詳しく問わなかったことを、今更ながら後悔だ。
なぜ開けておく必要があるのかわからない以上、いくら演奏するとはいえ、この扉を閉めてはいけないような気がするのだ。
内心焦る僕の気持ちを露知らず、君はあっけらかんとした口調で「克己くん、何をしている。早く扉をしめてくれ。弾けないだろう」と言い放つ。
既にグランドピアノの蓋を開け、演奏する準備は万端の模様。
僕は、母の言うマナーと君の言葉の板挟みにされ、困った状況に陥ったことを自覚する。
ここは、どう乗り切るのが正解なのだろう。
少しの焦りを覚えながらも、僕は必死で考えた。
次話は、
第13話 中学最後の夏4
=翻弄と羞恥心=
を予定しております。